ところが4日、仁和寺宮嘉彰親王が征討大将軍に任じられ、薩摩軍の陣営である東寺に二旒の「錦旗」がひるがえると、戦いの流れが変わる。

 薩長軍は「錦旗」によって「官軍」となる。それまで私闘とも見られていた戦いに、「官」対「賊」という分かりやすい大義名分が生まれた。態度を決めかねていた諸藩の軍勢は、雪崩を打つように「官軍」に馳せ参じる。5日、旧幕軍は淀城(稲葉家)に入城を拒まれた。6日には山崎関門を護る津藩(藤堂家)が、大坂城方面へ敗走する旧幕軍を側面から砲撃する。

 この夜、慶喜は錦旗に逆らうことを恐れ、ひそかに海路江戸へ帰ると、側近の板倉勝静と永井尚志に告げた。そして午後10時頃、松平容保・松平定敬の他、わずかな供を従えた慶喜は大坂城を脱し、天保山から開陽丸に乗り込んで江戸を目指す。大坂城に残された将兵たちは翌7日朝、真相を知って愕然とする。同日、朝廷は錦旗に刃向かった慶喜の追討令を発したので、これで慶喜は朝敵となった。

 慶喜を乗せた幕艦開陽丸は1月11日、江戸湾に至る。翌12日、浜御殿(現在の浜離宮恩賜庭園)から上陸した慶喜は洋装で馬にまたがり、わずか17騎を従えて江戸城に入った。この時浜御殿で迎えた勝海舟は慶喜にお辞儀もせず、周囲の者に対し、

「これだから、私が言わない事じゃない。もうこうなったら、どうなさるつもりだ」

 と、ひどく罵ってやったと回顧する。やはり浜御殿に駆けつけた忠順は、日記12日条に次のように記す。

「第8字(時)登城致し候ところ、昨夜大坂より御敗軍にて開陽丸御船にて品川沖え還り御遊ばされ候由につき、即刻浜海軍所え御迎えのため相越し、第10時、御機嫌克く還り遊ばされ候」(注2)

小栗は残る軍勢で
反撃できると考えた

 翌13日から江戸城内で、評定が繰り返された。忠順や海軍副総裁榎本武揚、歩兵奉行大鳥圭介および新撰組などは抗戦を主張する(注1)。忠順の日記を見ると13日条「5ツ時(午前8時)過ぎ登城、夜8ツ時(午前2時)退出致す」、14日条「例刻早メ登城、夜7ツ時分(午前4時)退出致す」とある(注2)。