忠順が示した策は、諸書により異なる。穂積驚「伝記/小栗上野介」(注4)では、敵を容易に関東に入れた上で関門を閉ざして攻撃し、その隙に海軍が薩長の本拠である鹿児島や下関を襲うというもの。高橋敏『小栗上野介忠順と幕末維新――『小栗日記』を読む』(注5)では、陸路東上して来る敵を海から砲撃し、フランス仕込みの最新鋭部隊で箱根・小仏・碓氷の関所を固め、機を見て大阪湾から反攻するというもの。
いずれにせよ忠順は、ほぼ無傷のまま残っている海軍と陸軍をフルに使って戦えば、勝利の可能性はあると読んでいた。
だが、慶喜の胸中はすでに恭順と決まっていた。そのため平和的解決を唱える海舟らが、主導権を握る。
一方、忠順は陸軍奉行並、勘定奉行兼帯を罷免され、勤仕並寄合となった。この時の様子を後年元旗本の木村芥舟(喜毅)は上野史談会で次のように語る。
「私が聞いた所では、彼の人(忠順)が戦争を主張して慶喜公をお諫め申した所が、お聴きにならんで、仕舞には公がお立にならうと仕たから、後方から裾を捉へたので、直に職を免ぜられたと云ふ事ですが…」(注6)
当の忠順は日記1月15日条に、勝手方老中松平周防守の指示で、着替えもせぬまま芙蓉の間に行くと、酒井雅楽頭から御役罷免を命じられたとある(注2)。
忠順の排除を、恭順派は歓迎した。大久保一翁は21日、京都にいる新政府議定の松平慶永宛て書簡で、江戸城内では真の道理(天皇への絶対服従)を理解せず、逆上する者が多いと嘆きながらも、「然るに小栗役を退けられ、その一連少々鎮静などの説、少なくは耳に入れ候者も出来」と、忠順が失脚して静かになったと言う(注7)。
勝海舟は小栗の
「度量の狭さ」を惜しんだ
『小栗上野介 忘れられた幕末の異才』(一坂太郎、幻冬舎)
後年、勝海舟は小栗忠順の功績をある程度評価しながらも、
「しかし度量の狭かつたのは、あの人のためには惜しかつた」
などと評している(『氷川清話』、注8)。
度量の狭さとは何か。三河武士の末裔である旗本の忠順にとり、徳川幕府は絶対の存在だった。忠順の揺るぎない信念は、薩長勢力とも接触して共和制を目指す海舟の目には、未来への展望を欠くものとして映ったのかも知れない。
もっともそれは、多分に「明治維新」後から見た結果論であろう。忠順は忠順の立場で、徳川を中心とする近代国家の構想を抱きながら前進していたのだ。
注5 高橋敏『小栗上野介忠順と幕末維新――『小栗日記』を読む』、岩波書店、2013年
注6 戸川残花「史伝」『旧幕府』第3巻第3号、裳華房、1899年
注7 中根雪江著・岩崎英重編『戊辰日記』、日本史籍協会、1925年
注8 『勝海舟全集』第21巻、講談社、1973年







