(左)高山右近 、(右)小西行長 Photo:Wikimedia Commons/Public Domain
豊臣秀吉に仕え、ともに出世を遂げていたキリシタン大名、高山右近と小西行長。しかし、1587年に秀吉が発した「バテレン追放令」を機に、2人の運命は大きく分かれた。右近は領地を失い、行長はその後も出世を重ねた。信仰を捨てなかった2人の明暗を分けたものとは何だったのか。(古城探訪家 今泉慎一)
出世街道を邁進していたはずの
2人の武将に「まさか」の出来事
キリシタン大名として著名な高山右近と小西行長。ともに豊臣秀吉に仕え、着々と出世を遂げてゆきました。そんな2人にとって驚きの出来事が、主君・秀吉によりもたらされます。
1587(天正15)年7月24日、「バテレン追放令」が発せられました。「キリスト教宣教師は20日以内に退去せよ」と命じられたのです。
豊臣秀吉の肖像画(1601年ごろ、狩野光信作、高台寺所蔵) Photo:Wikimedia Commons/Public Domain
当初、表向き日本人の個人的な信仰は禁止されませんでしたが、それでも影響がなかったわけではありません。また、一定以上の位の武士の場合は、キリスト教へ改宗する際は、秀吉の許可が必要とされました。
高山右近と小西行長は、バテレン追放令が出された時点で既にキリスト教に改宗していました。では、その2人はその後、どうなったのかというと――。
秀吉のそばで似た境遇にいたはずの2人の運命は、このバテレン追放令を機に、大きく分かれます。その鍵を握ったのは一体なんだったのか、探ってみましょう。
武勇とともに教養も備えた右近
領民への布教活動にも積極的
まずはバテレン追放令以前の2人の生涯について、おさらいしておきましょう。
高山右近は、摂津国(現在の大阪府北部)にゆかりを持つ武将です。父・友照の影響でキリスト教に触れ、1564(永禄7)年ごろ、奈良県の沢(さわ)城で洗礼を受け、「ジュスト」の名を授かりました。ちなみに父の洗礼名は「ダリオ」です。
1573(天正元)年ごろには高槻城主となり、城下の整備を進めます。宣教師の記録には、当時の高槻の住民のうち、なんと7割強がキリスト教徒だったともいわれています。







