後年の話になりますが、セスペデスは朝鮮出兵時、行長の部隊に従軍し朝鮮へも渡っています。これはキリスト教宣教師が朝鮮半島に渡った最初といわれています。
行長も秀吉の元で数々の合戦に参加しています。水軍を率いるのが得意で、特に1585(天正13)年の秀吉による紀州攻めでは、太田城攻城戦で行長率いる水軍が活躍しています。軍事以外の面でも、交渉や兵站(へいたん)、海上交通に通じた実務家としても重用されました。
小西行長を描いた浮世絵「太平記英雄傳 小西摂津守行長」(1867年、落合芳幾作) Photo:Wikimedia Commons/Public Domain
以上のように、いずれ劣らぬ実力派武将で、秀吉への忠誠心もありました。ではなぜ、その後の運命が大きく分かれてしまったのでしょうか。
棄教を拒み取り潰しも受忍
右近の信仰が篤くなった理由
バテレン追放令が発せられた際、右近は秀吉から棄教を迫られます。表向きはその対象は宣教師に限定されていたはずですが、やはり秀吉にとって、キリシタンの芽はできる限り摘んでおきたかったのでしょう。
領主が領民をキリスト教へ導くことは、やはり権力者にとっては脅威です。キリスト教という、全く違うルールに基づいた行動基準。政権の命令より信仰を優先することは、単なる個人の信心では済まされません。
前述した通り、右近には(秀吉から見れば、ですが)「前科」があります。領民の7割を信者にしてしまったというのは、おそらく戦国いや近
織田信長の居城・安土城の城下に設けられたセミナリヨ建設にも、右近が深く関わっていたという
右近はなぜ、そこまでの熱意を持って信心したのでしょうか。
二十歳そこそこだった1573(元亀4)年、右近は父・友照とともに暗殺されかけ、反撃する際に刀傷を負います。それは首を半分ほど切断する重傷でしたが、奇跡的に回復し、一命を取り留めます。
それ以降、より深くキリスト教に傾倒するようになったといわれています。
結局、右近は棄教を拒み、追放。当時の領地だった明石6万石(12万石とも)を全て失ってしまいました。







