追放された右近の「その後」と
出世の階段を駆け上がる行長

 右近はその後、前田利家に匿(かくま)われることになります。命だけは助かったものの、あくまで客将、現代風に言えば「居候」の身。それまでと比べると雲泥の差の立場になりました。

 ただし、金沢で茶会を開いた記録が残っていたり、前田家の一員として小田原城攻めに参加したりもしています。歴史の表舞台からは姿を消したものの、金沢での後半生はそれなりに充実したものだったといえなくもありません。

 一方、行長はその後も、豊臣政権の軍事・外交の両面で重用されました。1588(天正16)年ごろには肥後国に入り宇土(うと)城(熊本県宇土市)を拠点とし、肥後南部を中心とした領国を治めました。のちに約24万石となり、九州の有力大名の一角を占めるようになります。

宇土城全景宇土(うと)城全景。比高十数メートルの丘陵に築かれた
宇土城の石垣と横堀宇土(うと)城の石垣と横堀。現在の遺構の大半は、後に加藤清正が大幅改修した際のもの。行長時代の遺構は地中に潜んでいることが、発掘調査でわかっている

 行長の人生のハイライトは朝鮮出兵でしょう。1592(文禄元)年の文禄の役では、加藤清正とともに先鋒(せんぽう)を務め、講和交渉にも携わっています。1597(慶長2)年の慶長の役では、翌1598年(慶長3)に明軍の謀略で捕縛されそうになるも辛くも逃れ、水陸からの攻撃を撃退。撤退時にも敵方と交渉し、帰国を円滑に進める役を担っています。