高槻城跡高槻城跡。遺構は明治以降にほぼ破壊されてしまう。現在は公園として整備され、復元された石垣や水堀が見学可能
高槻城の厩郭枡形門の石垣石高槻城の厩郭(うまやぐるわ/馬小屋などが置かれていた場所)の枡形門(ますがたもん)の石垣石。産地が小豆島という偶然が、右近の後の運命を想像させる

 右近は信仰に厚いだけの人物ではありません。信長や秀吉に仕え、数々の戦場でも結果を残しています。

 特に、1582(天正10)年の山崎の戦いでは、中川清秀とともに秀吉方の先鋒(せんぽう)として活躍。信長の後継者争いで秀吉が頭一つ抜きんでたのは、右近の活躍もあってこそ、といってよいでしょう。

高山右近高山右近を描いた浮世絵「太平記英勇伝九十二:高山右近友祥」(1867年、落合芳幾作) Photo:Wikimedia Commons/Public Domain

 右近は茶の湯にも通じ、千利休の高弟「利休七哲」の一人に数えられるほどでした。腕っぷしも強く、当代一流の文化人としても知られる存在。右近は間違いなく、秀吉からも一目置かれた存在でした。

商家に生まれ実務や交渉に強く
水軍の将としても活躍した行長

 一方の小西行長は、堺などで活動した商人・小西隆佐(りゅうさ)の子とされています。若いころから瀬戸内海や九州の流通・交易と関わり、備前国(現在の岡山県南東部)の戦国大名・宇喜多氏に仕えたのち、秀吉の家臣となりました。

 行長の洗礼名は「アウグスティヌス」。父や家族にも信者がいたことが知られています。キリスト教に入信した時期には諸説がありますが、1584(天正12)年頃、右近の推薦もあって洗礼を受けたとの説が有力です。1585(天正13)年には、小豆島1万石を拝領。島にイエズス会の宣教師、グレゴリオ・デ・セスペデスを招き布教も行ったといいます。