ただ、その点はスミスも心得ているようで、彼は芸術作品に対する想像についてこんなことを言っています。
想像力によびかけるすべての芸術の作品を、われわれが判断するのは、これとおなじやり方によってである。批評家が、詩または絵画の巨匠たちのうちのだれかの作品を検討するばあい、かれはときどき、かれ自身の心のなかにある完成についての観念によって、それを検討するだろう。その完成の観念には、それあるいは他のどんな人間の作品も、けっして到達することがないだろうし、かれがそれをこの規準と比較するかぎり、かれはそのなかに欠陥と不完全のほかには、なにも見ることができないだろう。しかし、かれが、同種の諸作品のなかでそれが保持すべき地位を考慮することになれば、かれは必然的にそれをたいへんちがった規準、この特定の芸術において通常達成されている、ふつうの程度の卓越と比較する。(スミス上P67〜68)
つまり、自分の中の完璧な作品を念頭に置くと、それ以外の芸術は全部だめだということになってしまいます。しかし、ある種類の芸術はこのようなものだという目で見れば、もう少し相対的な評価ができるようになります。芸術を見る際は、もちろんどちらが正しいということではないわけですが、他者の気持ちに対する同感という点では、後者でないと決して分かり合えないでしょう。
結局、同感とは、自分の気持ちと他者の気持ちが重なり合うシンクロ状態だとひとまずは言えそうです。私たちはその状態を求めているのです。自分の言うことにみんなが共鳴してくれた時は気持ちがいいものですよね。
シンクロ状態は、時に拍手で表現されたり、一斉に起こる笑いや感嘆の声で表現されたりします。私たちはその感嘆の程度によって、共鳴の度合いを測ります。そしてそれが大きければ大きいほど、嬉しい気持ちになるのです。
だから、感情表現は大げさなくらいがいいでしょう。お互いにどれくらい共鳴し合えたのかが明確になるのですから。日本人はおとなしいので、人前で感情を露わにすることが苦手です。いいと思ったら口に出す、拍手する、立ち上がってスタンディング・オベーションをするーー。
そうでないと、相手に喜んでもらえたのかわからないので、次に同じことをしていいものかどうか判断できないからです。それは行為をしたほうも、それを受け取ったほうも、お互いにとってマイナスだといえます。お互いにいいと思ったならそれを確認する必要があるのです。
スミスはその気持ちを「相互的同感の快楽」(スミス上P36)と呼びます。そう、同感は快楽なのです。スミスが、「同席者たちの笑いさざめきは、かれにとって高度に快適なものであり、かれは、自分の感情にたいするかれらの感情のこの呼応を、最大の喝采とみなすのである」(スミス上P37)というように。
だから私たちは、互いに同感を求めて発言し、行動するようになるわけです。言い換えると、他人からよく思われるように行動するようになるのです。