アダム・スミスが『道徳感情論』のなかで強調するテーマのひとつに「同感(sympathy)」があります。人間が他人の経験や感情に思いを寄せるのは当たり前のことのようにも思えますが、スミスの目の付け所のどこに新規性があったのでしょうか。
人間は利己的か、利他的か?
自分のことは自分が一番よく知っているなどと言いますが、はたして本当でしょうか? 私は人間ですが、人間の存在については分からないことだらけです。どうして悲しくなるのか、どうしてこんな行動をとってしまうのか。それがわかっていれば、後悔する回数ももっと減るのでしょう。人間にとっての物事の本質を探究する哲学という営みは、ある意味で、人間の存在の意味を問うことを目的としています。謎だから問い続けるのです。
なかでも、人間が利己的なのかそうでないのかについては、永遠の難問であるといえます。皆さんは自分が利己的だと思いますか、それとも利他的だと思いますか?
二者択一だと、なかなか難しいですよね。ときに人はすごく利己的な行動をとるにもかかわらず、また別のときには自分を犠牲にしてでも他人を助けようとしたりします。人間はもともと善なのか悪なのかという性善説と性悪説の争いではないですが、利己的なのか利他的なのかという問題にもまた、神学論争並みの対立があるといえます。
はたして人間は利己的な存在といえるのかどうか。この問いに対して、アダム・スミスは『道徳感情論』の冒頭第一部第一篇で、次のように答えています。
人間がどんなに利己的なものと想定されうるにしても、明らかにかれの本性のなかには、いくつかの原理があって、それらは、かれに他の人びとの運不運に関心をもたせ、かれらの幸福を、それを見るという快楽のほかにはなにも、かれはそれからひきださないのに、かれにとって必要なものとするのである。この種類に属するのは、哀れみまたは同情であって、それは、われわれが他の人びとの悲惨を見たり、たいへんいきいきと心にえがかせられたりするときに、それにたいして感じる情動である。われわれがしばしば、他の人びとの悲しみから、悲しみをひきだすということは、それを証明するのになにも例をあげる必要がないほど、明白である。(スミス上P23)
つまり、人間は決して利己的存在ではなく、他人の状況についても感情を抱くことができるのです。たとえば、かわいそうな人を見たら同情するように。しかもスミスは、これについて証明する必要がないほど当たり前のことだといってのけます。
私たちが他人の状況にも感情を抱けるのは、想像力が作用するからでしょう。想像力は人間が当然持ち備えている能力の一つですから、証明する必要はないということになるのかもしれません。では、この場合、想像力はどのように働くのか?