おびただしい数の人々が亡くなった東日本震災の発生から4年、遺族は今何を考えているのか。シリーズ「大震災から4年『男の旅立ち』」第二弾は、震災で幼稚園に通う娘を亡くし、園を相手取って裁判を起こした男性の取材を試みた。メディアで大きく報じられた「日和幼稚園訴訟」の原告の1人である。
男性が和解にいたるまでの経緯や心情、今感じている思いなどに迫ることで、遺族の揺れる心を浮き彫りにする。
娘たちはなぜあんなことに……。
真相は今もわからないまま
「裁判で和解した後、争うことを『妥協したんですか?』と聞かれることがあるの。俺たちにそんな考えはないんだよね。法的な争いを終える、1つの出口という意味でしかないと思っている。和解、という言葉がよくないよね。娘が死んでしまったことの悔しさをどこにぶつけるか……。裁判は、その1つだったんだろうけど……」
西城靖之さん(46)が、昨年12月、石巻市(宮城県)の私立日和(ひより)幼稚園との裁判を終えた思いを話す。筆者が2年半前に取材で会ったときよりは、顔の表情はやや穏やかになっていた。
髪の毛には、かすかに雪がついたままだ。道に迷う筆者を、家から数十メートル離れたところまで、傘もささずに出迎えてくれた。2月上旬のその日は、しんしんと雪が降る寒い日だった。
東日本大震災では、幼稚園に通う次女の春音(はるね)さん(当時6歳)を亡くした。小学校に入学する直前だった。西城さんの左横には、妻の江津子さん(40歳)が背中に1歳の次男を背負い、座る。
「私は、主人が『和解する』という考えならば、それに従う。『まだ闘う』ならば、それについていく。この人は、常識的な判断をすると思っているから……。2人で意見が分かれたときに、私が自分の考えを押し通すことはしない」
幼稚園(現在は閉鎖)は、石巻市の中心部にある日和山(標高約56メートル)にあった。2011年3月11日の震災発生直後、園児を自宅に帰らせようとして、園は2台の送迎バスに子どもたちを分乗させ、発車させた。