前回まで、遺伝子検査の心理的問題とカウンセリング、遺伝子所有権に関する話題を取り上げました。これらの倫理的・法的・社会的課題は、1990年に「ヒトゲノム計画」が開始されると同時に、科学者の大きな関心事になり、同計画と並行して制度整備が進められてきました。なかでも当初から懸念の高かった遺伝差別問題とその対応策について今回は取り上げます。対応が遅れている日本への示唆に富んでいます。
ヒトゲノム計画(Human Genome Project)が始まった当初から、科学者のあいだで大きな関心事となったのが、倫理的・法的・社会的課題(Ethical, Legal and Social Implications:ELSI)の問題です。米国ではヒトゲノム計画に割り当てられた研究予算の5%以上は、ELSIプログラムのために確保することが義務づけられ、研究の進展と並行して、ELSI問題に対処する法・制度の整備が進められてきました。
米国ではELSIプログラムの開始から20年以上が経過し、その予算は1990年の157万ドルから2013年には1800万ドルにまで増加しています。これまでにELSIプログラムは、約3.17億ドルの研究助成を授与し、その資金を480以上ものプロジェクトに提供し、数千もの業績が報告されています。
http://www.annualreviews.org/eprint/eDSR5xjQy7XjwMQ9VDXs/full/10.1146/annurev-genom-090413-025327
このELSIのなかでも重要な課題のひとつが、遺伝情報差別の問題です。遺伝子の研究や検査サービスのみが進展し、遺伝情報差別の問題への対処が遅れている日本が学ぶべき点があるはずなので、その経緯を振り返っていきます。
米国では、1960年代に人種や女性などの差別に反対する社会運動が活発になりました。長い戦いの末、法律の一部が改正され、年齢、人種、性別、障害、出身地や宗教などに基づく雇用差別を禁止した雇用均等に関する連邦法が成立されました。また、法律の執行を監督する機関として「米国雇用機会均等委員会(Equal Employment Opportunity Commission:EEOC)」が設置され、雇用差別を受けたと思う人が誰でも訴えられるようになりました。
ヒトゲノム計画が始まった当初から、「遺伝情報差別」と呼ばれる新たな差別が生まれることは懸念されていました。遺伝情報を利用した、保険や雇用などにおける差別のことです。米国マサチューセッツ州ケンブリッジ市に「責任ある遺伝学協会(Council for Responsible Genetics : CRG)」という有識者によって設立された組織は、全米で初めて、遺伝情報差別のケースを公表しました。CRGは、遺伝情報差別により、保険や職を失った500例もの個人や家族の具体的ケースを報告しています。
http://www.councilforresponsiblegenetics.org
米国ではこの問題を解決するため、1995年の最初の法案提出から実に13年間の議論を経て、2008年に「遺伝情報差別禁止法(Genetic information Non-discrimination Act:GINA)」が、連邦レベルで制定されました(上院は満場一致、下院で賛成414票・反対1票)。同法によって、米国人が差別を恐れずに遺伝子検査を受けられるようになるものと大きな期待が集まりました。
この法律では、健康保険と雇用について、以下が定められました。
1) 遺伝情報にもとづく差別的取扱いの禁止
2) 本人・家族に対して遺伝子検査を受けることを要望または要求することを原則禁止
3) 本人・家族の遺伝情報の提供の要望または要求または購入を原則禁止
ところが現実には、遺伝情報差別は起こっています。