“政治主導”という言葉は今年の流行語大賞になるかも知れない。電車内で中学生らしき子供たちまでこの言葉で盛り上がっていた。どうやら自分たちの家庭が政治主導ではないということらしいが、はっきりした意味は判らなかった。
“政治主導”がむしろ
“官僚主導”を生み出すジレンマ
政府は現在、来年度予算の編成に臨み、公開の事業仕分けに取り組んでいるが、これも政治主導の一環とされている。しかし、私はこれを見ていてとても政治主導とは思えない。むしろ財務省主導の政治が強まっていると受け止めている。(詳しくは週刊ダイヤモンド「政権〈史・私・四〉観」を参照)
新政権はこの2ヵ月、政治主導の名においてさまざまな改革を始めたが、心ならずもこれらの改革は、政治主導にならないばかりか、かえって官僚主導(とりわけ財務省主導)を強める恐れがある。
(1)官僚による記者会見の廃止も、“政治主導の偽装”になるかも知れない。
必要があれば大臣の指示で官僚が記者会見をしても何ら問題はない。特に、過去の事実関係の経緯や技術的、専門的事項を含む会見に官僚が関与するのは当然だ。
いわゆる政務三役が、連日記者会見のためのレクチャーに追われていては、肝心の行政の指揮は二の次になる。
(2)国会での官僚答弁の禁止も同様の理由で政治主導を見せかけるだけで、それほど重大なことではない。
大臣が国会開会中に終日国会に縛られれば、執務に取り組む時間的余裕がなくなる。
朝大臣室を出て、夜大臣室に帰れば、役所から国会に通っていることと同じ。役所の勤務時間に留守にすれば、「政治主導の行政」ができるはずがない。
大臣の国会出席は、社長の株主総会出席と似ている。連日の株主総会で事業報告や経営方針を述べていたら、会社経営がおろそかにならざるを得ない。
(1)と(2)は、大変な勘違いだと私は思っている。