戦後史は日米関係の駆け引きの歴史であり、対米「追従」路線VS対米「自立」路線の政治ドラマでもあった。民主党は、戦後からの悲願だった「自主独立」路線をめざした政党だったが、それがうまくいかなかったのはなぜだろうか?戦後70年の節目に考える、日本の国家としての自立とは?

夢に終わったユニーク政策――鳩山由紀夫

 2009年8月30日、事実上の任期満了選挙に追い込まれた麻生自民党は、衆院選で惨敗し、前回の“小泉劇場”郵政選挙で稼いだ300の議席を、119にまで減らした。逆に前回の115議席を、308議席というとてつもない数にまで伸ばした民主党が、ついに結党以来の悲願であった政権交代を実現したのだ。

 国民の多くは、小泉政権に感じた爽快感が、実は政権交代の気持ちよさに似ていることに気づいていた。でもその後の安倍・福田・麻生で、また自民党は昔に戻ってしまった。 これでは物足りない。そんななか、民主党待望論が出てくるのは、ある意味当然だった。

鳩山由紀夫 photo:wikipedia Copyright by Jerry Morrison

 この選挙圧勝劇を受け、2009年9月16日、国会は民主党党首・鳩山由紀夫を首班指名し、ついに鳩山は第93代内閣総理大臣となった。鳩山由紀夫といえば、元首相・鳩山一郎の孫だ。鳩山一郎は対米追従型からの脱却をめざした人だし、孫の由紀夫も「追従だけでなく、独立国としての気概を持たなくてはならない」と毎日新聞のインタビューで答えている。

 これは変革の予感がするぞ――国民の期待は高まった。実際国民の鳩山内閣に対する期待は高く、共同通信社の世論調査によると、発足当初の内閣支持率はなんと72%にまで達した。

 しかし結論から言うと、鳩山の政権運営は、ことごとく失敗に終わった。「政治主導」を打ち出して官僚にコントロールされる政治を嫌ったまではよかったものの、実際にやってみると、官僚との根回しをまったくしない政治は、想像以上に難しかった。

 しかも鳩山の政治スタイルは、党内での意見調整もないままいきなり自らの構想を国民に示すものが多かったため、同じ民主党内からも不満が噴出した。

 結局、彼が示した構想の数々は、しばしば「突発的」「独断的」「狙いがわからない」などと酷評されることとなり、最終的には「首相の思いつきの政策を、誰も支持しない」形になることが多かった。

 そのため、鳩山内閣はどんどん支持率を下げ(2010年5月には19.1%にまでダウン)、最終的には辞任に追い込まれることになる。しかしそこで示された政策は、アイデアとしては実はとても面白いものばかりだったのだ。

 まず鳩山は、2009年9月にニューヨークの国連本部で開かれた国連気候変動サミットに出席し、そこで「CO2の25%削減案」を打ち出した。普通に考えれば、こんなけた外れに大きな削減目標、環境税の導入や排出権取引(各国に割り当てられた削減数値目標の%の売買)だけで、実現できるわけがない。

 しかし鳩山は、そこに「原発の積極稼働」で現実味を持たせようと考えたのだ。確かに原発は、化石燃料を燃やす火力と違い核分裂エネルギーで発電するから、CO2を出さない。つまりはクリーン・エネルギーだ。ならその稼働を最大限高めていけば、CO2の25%削減は夢ではないはずだ。

 しかしこの構想は、夢と終わった。2011年に発生した東日本大震災で、原発の積極稼働など不可能になってしまったからだ。2012年12月、自民党政権に移ったことで、この「25%構想」は完全に撤回された。