ピークを過ぎて首相になった男の悲劇――菅直人
鳩山辞任後、首相の座を引き継いだのは菅直人だった。菅はもともと学生運動・市民運動出身の政治家で、初当選のときは社会民主連合(社民連)に所属していた。その後は一九九四年に社民連が解散したのを受けて新党さきがけに所属し、そのときに橋本龍太郎の「自社さ連立内閣」で厚生大臣として初入閣して、薬害エイズ問題やO157問題に積極的に取り組む姿勢で名を上げた。
薬害エイズ問題では、菅自身が大臣として厚生省内の内部調査を陣頭指揮し、エイズ研究ファイルを発見して非加熱製剤の危険性を国が認識していた事実を突きとめ、改めて国の責任を認めて被害者家族らに謝罪した。
また出血性大腸菌O157の集団感染問題では、厚生省が「カイワレ大根が感染源」と発表したことで生まれた風評被害を払しょくするため、菅自らがカメラの前でカイワレサラダを頬張ってみせるというパフォーマンスを披露した。
とにかく、この厚生大臣時代の菅は「かっこいい」の一言に尽きた。学生運動出身の野党気質の正義漢が与党政治にピッタリはまると、こんなにも気持ちがいいものなのかと、国民の多くは感動すら覚えた。菅の人気は日に日に高まっていった。
その後、菅は鳩山の民主党旗揚げに参加し、鳩山とともに党の共同代表となった。その後も何度か代表に就任し、2003年には小沢一郎の民主党との合併などを実現させたが、その翌年の2004年、小泉内閣閣僚の「年金未納問題」あたりから、かつてのかっこよさのイメージはなくなっていった。
これは菅が、未納期間のあった三閣僚(中川昭一・石破茂・麻生太郎)を「未納三兄弟」と呼んで厳しく追及している最中、自らが4人目の兄弟と発覚して代表を辞任し、頭を丸めて“お遍路さん”になった事件で、菅代表はこれで相当国民からの人気をなくした。
しかし、党内での影響力は残し、2006年に民主党代表となった小沢一郎を鳩山・菅で支える「トロイカ体制」の一翼を担いつつ、今回の首相選出となった。
こう見ていくと、菅には首相就任時、すでに厚生大臣だった頃の人気はなく、その意味では首相就任は新鮮味に欠け盛り上がらなかった。しかし、主要スタッフを“反小沢”の枝野幸男(幹事長)や仙谷由人(官房長官)で固めたことが国民から評価され、内閣支持率は発足当初は61%、最高で65%と高い支持を得た。
しかしその後、消費税増税案が国民の不興を買って7月の参院選に惨敗し、衆議院とのねじれ現象を作ってしまった。その後、9月には尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件で中国漁船の船長を釈放したことで支持率が急落し、2011年3月には東日本大震災で危機管理能力の甘さを露呈し、さらには自民党の谷垣禎一総裁に入閣要請したことが指導力の弱さととらえられて、支持率の伸び悩みに苦しむ。
その後は首相を「辞める・辞めない」と発言が二転三転して内閣支持率は2011年7月には最低の16%を記録し、ついに8月、辞任した。