省内にも「反原発派」が5割!
おいしすぎる原子力利権とは?

広瀬 古賀さんが「発送電分離」を考えたのはいつ頃ですか?

古賀 最初に発送電分離の話を出したのは1997年です。
 当時私は通産省から、OECD(経済協力開発機構)に出向していたので、OECDを通じて、日本に発送電分離を勧告させるようにしました。
 1997年1月の「読売新聞」に、発送電分離の記事を一面トップに書いてもらいました。

 当時の佐藤信二通産大臣が、中国電力とケンカしていたことも背景にありましたが、「電気料金の内外価格差縮小のためには、供給体制も見直す必要がある」と発言したのです。

 そのとき、「これを仕掛けたのは古賀だ」と、通産省(現・経済産業省)の中で大問題になりました。自民党と、電力会社が大騒ぎして、「古賀をクビにしろ」と要求したと聞いています。

 それ以降、私は資源エネルギー庁に足を踏み入れられなくなりました。一切シャットアウトです。

広瀬 当時の通産省には、改革派もいましたよ。通産省が経産省になったのは2001年ですが、2000年頃、通産省内は原発派と、反原発でガス利用などの省エネ技術推進派に分かれていて、五分五分でした。
 私たちの側についてくれた官僚が半分ぐらいいるので、これは希望があると思っていたのです。そこに古賀さんがいたことは、当時知らなかったのですが。

古賀 そう、だから当時の資源エネルギー庁の次長が「電力改革をやれ」と号令をかけて、下は一斉に動きました。
 しかし、途中で国会議員や電力会社から攻撃され、ガタガタになりました。次長は保身に走り、半分くらいの官僚はそこにくっついて、うまく逃げましたが、残りの半分くらいは完全にやられました。

広瀬 その改革派だった人たちは、現在どこに行ったのですか? 内部に残っていないのですか?

古賀 若手は冷遇されて、やめました。2、3人は残っているでしょうか。被弾せずにかわした連中は、けっこうエラくなっています。

広瀬 経産省内に、どんな変化があったのですか?

古賀 2003年くらいまでは経産省の中に改革派がいて、その頃までは私たちが完全に主流でした。私は経済産業政策局という部署で改革派のリーダーでした。

 ところが、改革が進んで産業が自由化されれば、官僚の利権がだんだん小さくなります。そこで、改革派が一掃され、迫害を受けるようになりました。

 当時、私は「経済産業経済産業政策局経済産業政策課長」と「経済産業」が3つもつくポストで課長をやっていましたが、そこからボンボン飛ばされました。
 外郭団体に出されたのです。それもおかしな時期にです。外に出ると、普通2年間は同じ部署にいますが、任期途中で、そこからまた飛ばされました。

広瀬 要するに見せしめですね。

古賀 そうです。改革によって利権が小さくなるなかで、残っている最大の利権は「原子力」でした。

広瀬 官僚にとって利権というのは、天下りのことですか?

古賀 そう、原発の天下りが最大の利権です。電力会社や原発企業に天下りをすると、給料は年間何千万円ともらえますし、交際費は青天井です。海外旅行だって「出張」という名目で好きなだけ行けます。

 最高のレストランで毎日飲み食いし、最高のゴルフクラブでプレーして、年に何回か「視察」と称して海外旅行に行けば、最高のもてなしを受ける。そういうポストなのです。