ディベートに終始すると
議論に発展性が出ない

 この時、筆者はよくわかっていなかったが、これは典型的な弁証法の考えであることが、今になってわかる。弁証法にはいくつかの考え方があるが、ここでの弁証法とは「ある意見(テーゼ)」があり、それに対する「反対意見(アンチテーゼ)」があり、その2つの立場がぶつかりあうことによって、新しい1つの結論「総合(ジンテーゼ)」が生まれるという考え方だ。単純に言えば、違う意見がぶつかりあうことで、新しくより良い考えが生まれるということを意味する。

 A君は最初、論文の批判をディベートとしてとらえていた。ディベートとは、異なる2つの意見を戦わせて、どちらが勝つか、その優劣を決める、ある種の対話ゲームである。ディベートは弁証法的対話と違い、新しい考えを生み出す目的はない。自分の考えの優位性を主張し、議論という「ケンカ」に勝つことが目的だ。

 先生は、学者の中でも、他者の研究批判をするときに、ディベートと勘違いする人が多いと語った。

「今後、学会にいったら、発表後の質問を注意深く聞いてごらん。わかっている人とわかっていない人と、綺麗に分かれているから」

「優秀な人かどうかは、その人の質問の仕方を見ていたらわかるよ。優秀な人は、発表者の研究をより発展させようと思って質問するからね」

 それから20年以上経つが、筆者は今でもこのことを肝に銘じている。他人の研究がいかに自分の考えと相いれないものであっても、まずは受け入れ、相手の視点に立って考え、そのうえで、建設的な(相手の研究発展に役に立つと思われる)批判をするように心がけている。

 日常会話やビジネス場面でも、そういう人とそうではない人の違いにお気づきの読者は多いと思う。だが、実践してみるとそれは簡単なことではない。

 筆者が、相手の研究発展に役立つようにと思ってコメントしても、その意図がなかなか伝わらないこともしばしばである。そういったケースでは、大抵の場合、相手がディベートモードに入っている。相手にとっては、自分にくる批判はすべて「打ち倒すべき敵」であり、対話の目的は相手を負かすことである。そういう考えの下では、最終的には本人の研究は独りよがりなものになってしまって、せっかく良い発展性があってもそれを活かしきれないことが多い。

 また、そのディベートモードの相手が、自分より年長だと、ますます話が難しくなる。「あの若造が、生意気に俺の研究にいちゃもんつけやがって」と言われてしまうのだ。