「環境のよさをいかした養殖をしてきたというのは事実ですが」と中薗さんが続ける。

「われわれ漁協の先輩方による販路拡大、そして、その流れのなかで生産者のみなさんが協力してくれた、ということが大きいと思います。同じ考え方で、一致団結してみんなで一緒にやっていこう、という考え方をずっと続けていることでしょうね」(中薗さん)

 その精神が東町漁協ならではのシステムを生んだ。

「一元集荷、全量共販出荷」

 ほかの漁協ではめったに見られない体制だ。

「うちも、そうでした」と中薗さん。そしてこう続ける。

「最初はそれぞれの生産者が、漁協に手数料だけ納めてバラバラに売っていました。けれど、それよりもみんなで一緒にやったほうが、もっと利益を上げられるよねという機運があったようです」

 とはいえ、他ではなかなかできないことが、なぜ、できたのか。

鰤王の水揚げ風景

「やはり、ここが『島だから』ということがあります。当初、出荷していたのは九州だけでした。生産量が増えても、売り先がなければ意味がない。築地に持って行こう、全国にも運ぼう、となると、みんなでまとまらなければ実現できなかったんです」(中薗さん)

 漁協と生産者の一致団結のもと、昭和49年、黒ノ瀬戸大橋開通をきっかけに、本格的にブリ産地としての歩みをスタート。同年、水産物市場を開設し、昭和56年には冷凍冷蔵施設を設置。「マルヒガシ」のブランドで全国への出荷を飛躍的に伸ばし、平成3年には水揚高100億円を達成した。

 さらに東町漁協のブリは、国内だけにとどまらなかった。昭和57年、海外輸出も開始。輸出先は北米。当時、すしブームがはじまり、脂のノリがいいネタとして「ブリ」がアメリカ人にウケたのだ。

「日本国内で流通するブリは5キロくらい。アメリカでは10キロサイズの、さらに脂がのったブリが、とても好まれたんです」(中薗さん)

 ブリは日本近海でしか養殖ができない。そしてじつは、いまも日本におけるブリ輸出の84%は北米だ。東町漁協における海外輸出先の約6割のシェアを占めるのも、北米である。いち早く、海外に上顧客をつかむというチャンスを得たのだ。

 輸出を機に、さらに東町漁協の組織とシステムも無敵の体制を育み始めた。