ダイヤモンド社刊
2520円(税込)

「教師は教えているのではない。学ぶことを監督しているにすぎない」(ドラッカー名著集(7)『断絶の時代』)

 教わることとは、意味と理解にかかわることである。ドラッカーは、教わることと学ぶことを峻別して考えている。

 教わることは、知力よりも知覚にかかわることである。それは模範によって示される。ここにおいてこそ、教師が必要とされる。学ぶことが、ドリルの学習によって身につける自己完結的なプロセスであるのに対し、教わることは教師との相互的なプロセスである。

 優れた教師であれば、学ぶことの妨げにはならない。われわれがよい先生としているのが、この手の人たちである。しかし、彼らでさえ、本来は教えるために使うべき時間を浪費している。

 学ぶためのプログラムが開発されていない。われわれは、生徒が欲しているもの、すなわち学ぶために必要な道具を与えていない。その結果、教師に行なうべきことを行なわせられないでいる。

 教師は教えようとしている。だが実際には、彼らのほとんどが教えているのではなく、学ばせるための監督をしているにすぎない。

 必要なのは、教師が教えることに集中できるようにすることである。それがオックスフォード大学の個人指導制である。だが、18歳からでは遅い。そこで、ドラッカーは、学びのプログラムとしてeラーニングの発展に期待する。

「教師の生産性を上げるには、彼らに教える時間を与えなければならない」(『断絶の時代』)