国民の半数を超える450万人が国を出たとも言われるシリア難民、そして「第二次世界大戦後最悪の人道危機」と言われるヨーロッパ難民危機。いまだ悪化の一途を辿る難民危機だが、今も精力的に取材・発信を続ける1人の記者がいる。ガーディアン紙初の「移民専門ジャーナリスト」にして、『シリア難民 人類に突きつけられた21世紀最悪の難問』(原題The New Odyssey)の著者、パトリック・キングズレーだ。
今回は、ギリシャ・マケドニア国境のハラ・ホテル――皮肉なことに、押し寄せる難民によって繁盛している――で出会った、家族連れの難民の物語をご紹介しよう。なぜ、彼らは幼い子どもを連れて逃げねばならなかったのだろうか。

1歳の子を連れて放浪する夫婦の物語

 新たな難民が到着した。ダマスカス南部の町ヤルムークから来た、ナセルとファティマの夫婦だった。1歳の息子ハムダの顔には、いくつも蚊に刺された跡がある。

家族を守るための唯一の選択肢が、「国を捨てる」だとしたら?<br />――1歳の子を連れて国境越えを目指す家族の物語妊娠中のファティマはお腹の子の状態を心配しながら、夫ナセルと長男ハムダとともにマケドニアを目指して歩きつづけた(c)Patrick Kingsley <拡大画像を表示する

 ナセルは9日前、海を渡るときに使った子ども用救命胴衣でおんぶ紐をつくり、それでハムダを背負っていた。トルコでちゃんとしたベビーキャリアを買ったのだが、海で捨てなければならなかった。サモス島に向かう途中でボートの燃料が切れてしまい、全員で水をかいたのだが、ボートの進みは遅く、やがて水が入ってきた。島まであと数百メートルのところで沈没寸前の状態に陥り、全員、最重要品以外すべてを海に捨てたのだった。海岸まで十分近づいたときには、誰もが数センチ水の中にいた。ナセルはハムダを頭の上高くに掲げていた。

 今日のハムダはご機嫌で、抱っこしてくれた両親に熱心に触っていた。私のノートとペンを渡すと、大喜びして書きなぐっていた。ナセルは息子の芸術的なセンスに喜んでいた。ナセル自身も彫刻家であり、インテリアデザイナーだったのだ。ファティマは教師で、ハムダの手とシャツが真っ赤なインクだらけになったことに、あまりいい顔をしなかった。ペンとノートが返されると、ハムダはよじ登りを再開した。

 駐車場で動きがあった。フェイスブックの「ガイドブック」どおり、ハラ・ホテルの裏手から平原に下りていく難民たちの長い列ができていた。国境閉鎖のニュースはまだ広く伝わっておらず、誰もが数週間前、あるいは数ヵ月前の情報を頼りにしていた。新しいルートを切り拓くには、フットワークがよく、冒険心のある若者が必要だ。今は家族連れが多いから、平均的な難民たちはグループで物事を決めたがる。

 ナセルとファティマは、友達の到着を待っていた。テッサロニキからタクシーに乗ったはずが、警察に捕まって連れ戻されたらしい。このため先に到着したナセルたちは、2~3時間待たなくてはいけなかった。といっても、話す以外にやることはほとんどなかったから、夫婦は少し詳しく身の上話をしてくれた。

 2人は、結婚してからずっと引っ越し続きだったという。当初、結婚式は2012年12月12日に挙げたいと思っていた。12-12-12という数字の並びが気に入ったからだ。ところが、ヤルムークには同じことを考えているカップルが大勢いたため、2人の結婚式は12-12-10になってしまった。結果的には、それが幸運となった。彼らが結婚式を挙げた2日後(つまり2人が結婚式を挙げたかった日)、アサドのミグ戦闘機がこの地域の空爆を開始したのだ。ヤルムークはたちまち破壊しつくされ、住民は食料を求めて長蛇の列をつくった。ナセルの言葉を借りれば、町は「美しい場所から、蟻の行列」へと変わった。

 夫婦は急いでダマスカスの別の地区に逃げたのだが、ナセルはそこで、身分証明書と自分の全作品を保存したハードディスクを自宅に忘れてきたことに気がついた。携帯電話に保存した写真をいくつか見せてくれたのだが、それは壁画と彫刻と水車をエッシャーふうに組み合わせた、ちょっと奇妙な作品だった。

 忘れ物を取りに行くため、ナセルは激しい市街戦が展開されていたヤルムークに戻った。ところが忘れ物を回収できたのはよかったものの、帰り道に銃撃戦のどまんなかに踏み込んでしまった。安全地帯に行くには、スナイパーから丸見えの広い道路を渡らなくてはいけない。先に友達が渡ろうとして、途中で撃ち殺された。ナセルは5時間もの間、自分は民間人で、安全なところに行かせてくれと大声で訴えつづけた。その声がスナイパーたちに届いたか、届いたとしても信じてもらえたかは確認のしようがなかった。だから同じ場所にじっとしていた。

 ある時点で、隣で縮こまっていた家族が決心を固めて、猛ダッシュで道路を渡ることに成功した。そこでナセルも彼らに続いた。一歩、また一歩、さらに一歩――何も起きなかった。銃声はしない。沈黙だけだ。4歩、5歩。道路のまんなかあたりまで来たが、やはり沈黙。ところがそこで突然ブチッと音がして、カバンの紐が切れた。そして命がけで取りに来た忘れ物が、全部地面に転がり出した。なんてこった。どうすればいい?しゃがんで拾うべきか。それとも諦めて、せっかく取ってきたものを置き去りにするか。ナセルは衝動的に地面にかがみ込み、散らばったものをかき集めた。銃声がしたのはそのときだ。銃弾がナセルの頬をかすり、ジリッとした熱を感じた。だがスナイパーはしくじった。ナセルは命拾いをしたのだ。

「行くしかないんだ。家族を守らなくちゃいけない」

 ハラ・ホテルの駐車場では、人の群れが小さくなっていた。午後3時を過ぎて、ほとんどの人はマケドニアに向けて出発していた。ナセルとファティマもそろそろ出発しないと、国境で夜を明かさなければならないかもしれない。だが友達はまだ来ない。結局もう1時間待つことになり、2人は再び彼らがたどってきた道のりを話してくれた。

 息子ハムダは、悲惨な環境で生まれた。ヤルムークを逃れてから約1年がたち、夫婦は友達の家を転々としていた。自宅は破壊され、ナセルの父親と妹は死んだ。ダマスカスは再建が進むどころか、破壊が続くばかりで、インテリアデザイナーであるナセルに仕事はない。仕方なく、セメントを運ぶ仕事を始めた。かつてのナセルなら、どこかに外注していた仕事だ。

 そんな状況に加えて、新たに住みはじめた地区で行方不明になる住民が増えはじめると、もう無理だという気持ちが強くなっていった。ある日突然、政府や関係機関の使者がやってきて、住民を連行しては、戦闘の最前線に送り込んでいたのだ。そこでナセルの母親が、シリアから逃げるべきだと提案した。それがゴーサインになった。ナセルの家族では2世代で3度目の避難だった。ナセルの両親は1948年にパレスチナからクウェートに逃れたパレスチナ人で、ナセルはクウェートで生まれた。そして1990年にクウェートがイラクの侵攻を受けると、一家はシリアに逃れてきた。ナセルにとって、これは2度目の避難だった。「どこに行っても、また逃げないといけない」

 シリアを出るだけでも大変な苦労で、お金もかかる。

 ファティマとナセルは、トルコを目指して北上したが、政府側の検問所をしつこいくらいたくさん通らなければならなかった。検問所では、必ず兵士たちに賄賂を要求される。1000シリア・ポンド払わなければならなかったこともある。最後の検問所に来たとき、ナセルの所持金は450シリア・ポンドしかなかった。兵士たちはニヤニヤして、所持金がもっと少ない人たちを歯が抜けるまで殴りつけた。ISISの検問所も似たようなものだった。1人で旅している女性は逮捕された。奴隷として彼らの手元に置かれた可能性もある。ナセルはファティマとハムダとの家族連れだったから、なんとか見逃してもらい、2014年11月にトルコにたどり着いた。

 トルコのシリア人受け入れ数は世界一だ。だがトルコは、中東出身者に難民の権利を認めていない。1年間の滞在許可はもらえるが、働く権利は認められない(※2016年1月、トルコはシリア人に労働許可の申請を認めた。ただ、すでに手遅れで規模は小さすぎたかもしれない)。ナセルは大理石の塊をよりわける仕事を見つけた。不法就労だから、賃金は法的な最低賃金を大幅に下回っていた。空いた時間に、小さな大理石の塊にアヒルや水鳥を彫って、もっと高賃金の仕事ができることを証明しようとしたが、マネジャーからは肉体労働に集中しろと言われるだけだった。

 こうして7ヵ月がたち、ナセルとファティマは、ヨーロッパ行きを試すしかないと決断した。まずエーゲ海を渡ってサモス島に到着すると、16時間歩いてようやくシェルターに着いた。そこで1週間待って仮登録書を発行してもらうと、2日間歩いてマケドニア国境まで数キロのハラ・ホテルまで来た。2人にとって、これまで通過してきた場所は、まったく馴染みのない世界で、そこを放浪するのは、メガネをかけずに運転免許の試験を受ける感覚と少し似ているという。「この旅は謎だらけだ」と、ナセルは言う。「でも、ほかにどうしようもない。行くしかないんだ。家族を守らなくちゃいけない」