『独学大全──絶対に「学ぶこと」をあきらめたくない人のための55の技法』を推してくれたキーパーソンへのインタビューで、その裏側に迫る。
今回は特別編として、日本最高峰の書評ブロガーDain氏と読書猿氏のスゴ本対談「世界史編」が実現。『独学大全』とあわせて読みたい世界史の本について、縦横無尽に語ってもらった。前回の対談はこちら→本好きの度肝を抜く! 年末年始に必読の「世界史スゴ本」ラスボス的一冊(取材・構成/谷古宇浩司)

本好きもうなる!「歴史の学び直し」に最強のスゴ本ベスト4Photo: Adobe Stock

「なぜ歴史を「学び直す」のか?」を考える一冊

Dain:そもそもの質問になるんですが、読書猿さんは、大人が歴史を学び直す意味は、どこにあると思いますか?

読書猿:先日、『独学大全公式副読本』(電子書籍限定)を出版したんですが、扱ったテーマのうちのひとつが「歴史」だったんです。その中で、研究者でもない我々が歴史を学ぶ意義はなんだろうと自問して、「私たちを誘惑し麻痺させる、耳触りのよいつくり話への免疫を身に付けるため、一種の認知ワクチンを接種するため」と答えたんです。

 歴史から接種できる認知ワクチンにもいろいろあって、最強かつ一生モノの「抗体」が得られるのは、歴史研究の「成果」よりむしろ、その「過程」からだと思います。『歴史学研究法』(注1)ってまた品切れ絶版本があるんですが、このコンパクトな書物の最後の章で、武田信玄が塩尻峠で戦い勝利した出来事を複数の文献を突き合わせて史実を確定していく模擬演技みたいなことをやっていて、これを見るのが分かりやすい。

 歴史家が手にする史料は、必ずしも信頼ができるものばかりじゃない。そういう意味で、歴史家はもう何世代もの間、フェイク情報を扱ってきたプロ中のプロなんです。

 何しろ史料というのは残らないことの方が多い。いつでも知りたいことに対して不足しているものなんです。ちょっと疑わしいところがあるからと捨ててしまうと何も残らないことすらある。部分的に瑕疵のある史料を、どの部分は使える、どの部分は○○の引き写し、どの部分は書き手の政治的利害からのアピールで眉唾、などと、細かく吟味して評価して、他の史料と繰り返し突き合わせて、矛盾を浮かび上がらせ、そうした面倒くさい手続きを経て、できるかぎり確かな事実ににじり寄る。そして、同じように面倒くさい手続きと仮説検証を重ねてきた歴史家と、ガチで論争を重ねる。こういう、まだ冷えて固まってない歴史研究に触れてみるのが、一番役に立つものが得られる気がします。

Dain:「なぜ歴史を学ぶのか?」への回答は、ズバリ読書猿さんの言う通りだな、と思いました。私は、都合よく一部分を切り取って継ぎはぎした、分かりやすいストーリーを信じたがる傾向があります。陰謀論もそうだし、「世界はこうなっている!」というシンプルな像にも誘惑されます。でも、実際そうじゃないんですよね。世界はもっと複雑だし、取り沙汰されるエビデンスも、全てが正しいわけじゃない。それらを突き合わせて何が言えるか、というプロセスでもってしか、事実に近づけないんですね。

 そんななかで、ブログの読者さんから教えてもらったのが『市民のための世界史』(大阪大学歴史教育研究会編、大阪大学出版会)という本です。この本では、歴史をこう定義します。

本好きもうなる!「歴史の学び直し」に最強のスゴ本ベスト4市民のための世界史

・歴史は記録でも記憶でもない
・専門家によって研究された歴史の叙述は、単なる「事実の記録」ではないし、「社会の記憶」の集積とも一致しない
取捨選択された史料的根拠と、それを支えるロジックが、専門家同士で批判的に検証され、共通的な理解となったもの→これが「歴史」

 もちろん思想や解釈により割れることもあるが、それは決して「勝者の指示」や「多数(を装った派閥)の声」で決定されはしないと述べています。つまり、エビデンスがあり、ロジカルで、妥当な理解が定説とされ、教科書にも書かれるものが歴史です。

 最近、賑わいを見せている、洗脳のためのイデオロギーに満ちたプロパガンダだったり、売らんがなのエンターテイメントに彩られた物語ではないのです。

『市民のための世界史』は「そんなに歴史が好きでもない」学生を想定し、現代の問題の因果関係を解きほぐすことを目的として書かれています。人名や年号は極力減らし、さっくり読めるように薄く(A5版で300ページ)作られています。

 本書を読んでいて、改めて「なぜ歴史をやり直すのか」を考えました。それは、時代ごとの世界の構図や見取り図を知りたいからです。細かいことは置いといて、大きな流れを、ざっくりとでいいから理解したいから。現在は過去の蓄積の上にあり、歴史を知らなければ、今の世界がなぜこうなっているのかは理解できないし、未来を考えることもできないからです。

 これ(↑)は、かっこいい言い方ですが、もっと生々しく言うなら、イデオロギーに刷り込まれた、プロパガンダにまみれた「歴史」が書かれた/発話された/証拠として挙げられた時、すぐにそれと分かるための、ベースラインが欲しいからです。

 優れた交渉人は嘘はいわない。けれど本当のこともいわない。自分が望む方向を相手に理解してもらうために、色々な表現を「盛ったり」「省いたり」して交渉を「演出」します。その演出に気づくために、ベースとなる因果関係を知っておきたいのです。

 たとえば、2009~2015年にかけて断続的に話題になったギリシャのデフォルト(債務不履行)の話。その原因はギリシャがEUに加盟した時に粉飾決算していたから……ぐらいしか想像できませんでした。テレビのワイドショーだと、「ギリシャ人は怠け者だから」とかいっていたことを覚えています。

 しかし、本書のおかげで、第二次大戦後の米ソの冷戦によるパワーゲームという視点が手に入りました。

 第二次大戦直後、インフレや経済危機が生じました(特に東欧がひどかった)。米国は、共産主義がそこに付け込み、拡大していくことを恐れました。そして、ギリシャとトルコの共産主義化を阻止するため、対ソ封じ込め政策を始めました。具体的には、欧州の経済復興を図るマーシャル・プランを発表し、4年間で50億ドルを超える巨額の財政援助をしたのです。

 ここから、援助を当然視するギリシャの財政構造が見えてきます。地政学的に見て、ギリシャがロシア陣営に組み込まれるのは避けたい。だから西側へ繋ぎ留めておく必要がある……そういう利害が一致しているのではないかと。

 むかし冗談で、地中海に軍港を提供するとギリシャがいい出したら、米独は軟化するかも、なんていったことがありますが、冗談じゃないかもしれません。本書をきっかけに、グローバルヒストリーという観点から、世界史をやり直しています。

(注1)今井登志喜『歴史学研究法』(東京大学出版会, 1953)。オリジナルは、『岩波講座日本歴史』(1935)の一部として書かれたもの。今井の専門はイギリス史(都市発達史)であるが、事例として今井の故郷の塩尻峠が取られているのは、定職につく以前、1918年、長野県諏訪郡史編纂を委嘱され『諏訪史』を編纂したこと、その後も故郷の郷土史に関わり続けたこと等が背景にあるのかもしれません。

現場で教えている「最新の世界史」を知れる一冊

読書猿:歴史学が変わっていく中で、歴史を教える現場もまた、僕らが高校生だった頃とは大きく変わっています。『世界史をどう教えるか――歴史学の進展と教科書』(神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会、山川出版社)を読むと、それがよくわかる。

 この本は、今回紹介するなかでもキラー・コンテンツです。高校の先生たちが「今教えなきゃいけない世界史って、おれたちが習ったのとぜんぜん違う、やばい」と勉強会をやった成果物です。教科書が変わったという本はたくさんあるんですが、注釈もついてない悪い意味での一般書が多い。こっちはちゃんと注釈付きで索引付きです。どんな研究を元にしているか、次に何を読めばいいか、ちゃんと分かる。

 一方に歴史の専門書があって、もう一方には教科書があって、それを結ぶことをしているので、歴史研究がどんな風に教科書に反映しているか、簡単な解説にもなっている。だから、当たり前に与えられるせいであまりリスペクトしてこなかった教科書という書物がどれだけの蓄積と労力をかけたものであるかも分かる。教科書のすごさが分かる本なんです。

 たとえばですね、大学の経済史の教科書がまだ「市民革命が産業革命を準備した」みたいなことを平気で書いているものもあるのに、『世界史をどう教えるか』では「すでに高校の教科書では『市民革命』という語は使わないか、まだ使っている教科書でも背景に後退している」と切り捨てる(笑)。

 他にも、フランス革命を「ブルジョワ革命」と教えるために、ミラボー伯爵、ラファイエット侯爵、タレーラン司教をそれぞれミラボー、ラファイエット、タレーランとわざわざ肩書を取って紹介するのは、ブルジョワと貴族の対立を強調するためのものとみなさざるを得ないとか。

 これは悪口ですが、大人向けの世界史の一般書って、書いてある事項もさることながら、歴史の見方が、信じられないくらい古臭い。一国主義だし英雄主義。どこの国が強いとかすごいとか。だから売れる、というところもあるんだろうけど、大人のノスタルジーを刺激するみたいなの、健全じゃないですよね。

 これに対して、教科書の方がずっと進んでる。改訂のたびに新しい知見や見方を取り入れようとしている。後で具体的にいいますが、なるべく新しいことは取り入れない、取り入れても別枠のコラム扱い(笑)という保守的な教科書もあれば、構成自体が変わるほどバンバン取り入れる先進的な教科書もあるんですが、それでも大人向けの一般書よりずっとマシ。

 でも、みんな教科書、嫌いですよね。読みにくいし、分厚い、と。『世界史をどう教えるか』は、新しい教科書のどこが違っていて、どこが新しいかをピックアップしてある本なんで、新しい教科書の良いとこ取りができるんです。

Dain:これは衝撃的でしたね。教科書というものは、その分野の基礎知識を洗練させたものだと思っています。だから、そうそう変わるものじゃない。もちろん、最先端は変わるでしょうが、根本の所は揺るがない……そんなイメージを持っています。

 たとえば、物理学や数学。ニュートン力学や微積分法は変わらないでしょう。アインシュタインの重力レンズの実測とか、フェルマーの最終定理の証明といったトピックが、コラムのよう追加されることはあるでしょう。ですが、教科書に書いてあることが現実とそぐわなくなったので、教科書を改訂する、なんてことはありません。

 ですが、歴史学だとありえます。私たちの過去への認識が変わったことで、これまで教わってきたことが「違うこと」になり、教科書を文字通りアップデートする必要に迫られることがあります。

読書猿:今、高校の数学で教えているのは、17世紀くらいまでのいわゆる古典数学でしょう。19世紀以降の数学研究の成果は、高校の教科書には反映されていません。それは数学だけではなく、化学や物理学でも状況はそれほど変わらないと思います。

 一方で、現役の数学者や科学者が取り組んでいる研究はどんどん進歩しています。最新の研究成果と高校の教科書に書かれている内容とは、時代的に大きな開きがあり、しかもその差はどんどん開いていく。そういう意味では数学の先生も大変ですが、数学や他の学問の場合はその状況が特に問題視されていません。

 ただ、数学の先生と違って、中学、高校の歴史の授業の場合は「昔のことをそのまま教えるわけにはいかない」んです。歴史学の研究は、対話とか歴史家の歴史認識のところまで行ってしまっていて、(アクチュアルな時代意識としての)歴史家ではない普通の人(政治家も含む)を巻き込んで、新しい歴史が記述され始めているんです。

 にもかかわらず、歴史の教科書はいまだに、旧来の構成をできるだけ変えまいと一国主義を墨守していて、新しいものの見方があまり取り入れられていない。入れてもせいぜいコラム扱い。いや、実は新しいものを取り入れるのに熱心で、構成も変えてきてる教科書もあるにはあるんですが、こっちはどうも、現場で採用されづらいんですね。

「教科書の記述が変わった理由」がわかる一冊

Dain:私は読書猿さんのおかげで世界史の教科書を読みなおすようになったんです。そのラーニングログをTwitterにポストしているんですが読書猿さんが、その都度、リツイートしてくれるからさぼれない。おかげで山川の『詳説世界史B』『詳説世界史研究』を読破できました! これぜったい独力では力尽きていたと思います。あらためて感謝します!

「世界史の教科書を読むといいよ」というアドバイスは、佐藤優さん、スケザネさんがしていますが、「“この”教科書を読むといいよ」というアドバイスをしてくれるのは、読書猿さんだけですね。

 でね、世界史の教科書を読んでみると、当たり前なんですけど、知らない歴史が書いてあるんですよ。自分の記憶では、現代史は米ソ冷戦で終わっていたはずなんです。しかし、今読んでいる教科書には冷戦後の世界の歴史が書いてある。もちろん、冷戦後の世界の動きを新聞やテレビなどのニュースを通じて知っています。知ってはいるんだけど、別に「歴史」として整理をして理解をしているわけじゃない。しかし、教科書にはいろいろな事件が取捨選択され、構成されて1つの歴史になっている。教科書のページは限られているから、何を拾い、何を捨てる、その取捨選択の対象が変わることで、アップデートされているのだと思います。

 たとえば江戸時代、ポルトガルからの鉄砲伝来についても、書き変わっています。昔の、1980年代の教科書では、「ポルトガル人の乗った船が種子島に漂着した~」なんて書いてあります。イメージ的には、ポルトガル人が乗っている西洋の船がやってきた、という感じですね。でも、今の教科書だと、「ポルトガル人を乗せた中国人倭寇の船が」と書き変わっています(注2)。ポルトガル人は様々な船を乗り継いで、最終的には倭寇の橋渡しによって、日本に鉄砲をもたらしたのです。

 なぜ、そんな風に記述が変わったのか? 新たな史料が発見されたのかというと、そうではない。1980年代も、今も、根拠となる史料は変わっていない(注3)。『東大連続講義 歴史学の思考法』という本があるのですが、この本によると、変わったのは、史料を読み取る我々の側だというんです。

『歴史学の思考法』は、東京大学の教養学部で行われる連続講義をまとめた一冊です。12講座12章のテーマに分かれていて、気象変動から見た歴史とか、帝国を見直す試みとか、新しい考え方を学ぶことができます。歴史を見る「目」が増えます。

 潮目となるのは1990年前後です。それより前までは、歴史学者の間で「国家の枠組みを前提とした歴史」が主流でした。一国一国それぞれの中で書かれる歴史です。

 だけど、戦後体制の崩壊やグローバル化といった世界情勢で、この「国家の枠組み」の限界が強く意識されるようになります。そして、この枠組みを外し、国境をまたぐ「東アジア海域」全体の歴史像をとらえようとする研究視角が盛んになったというんです。倭寇を単なる「荒くれもの」とせず、地域間の交流や商業を担っていたという側面が重視されるようになります。

 教科書の記述が変わったのは、こうした世界情勢の変化という背景があったからなんです。同じ史料だけど、その再解釈の中で、これまで注目されなかった事実、つまり「ポルトガル人は中国人倭寇の船に乗ってきた」ことの重要性がクローズアップされたんです。

 今、私が読んでいるのは、帝国書院の『新詳 世界史B』です。16~17世紀の、海洋による世界の一体化の文脈の中で、日本から琉球、明、台湾、マラッカ海峡までの東アジア交易が盛んにおこなわれたことが書かれています。そこでは中継交易が基本です。巨大な船で遠洋航海するのではなく、博多から那覇、那覇から台湾といった中継交易です。そうした海域間のリレー式の流通を支えたのが、倭寇なんです。

 私の受けた教育だと、「倭寇=海賊」なんだけど、実はそうではなく、海を生活の場とする人々という意味に変わっています。もちろん、海賊のようなアウトローもいれば、ただの商人もいて、実際のところ大勢は普通の海の民なんです。しかも、倭寇の「倭」は、日本人を意味するものではなくなっているといいます(注4)。

 鉄砲をもたらしたポルトガル人は、こうした商業ネットワークを乗り継いできたんだな、ということがよく分かります。

読書猿『世界史をどう教えるか』にも、僕らが高校生だった頃には「大航海時代」という言葉が書かれていたけれど、今の教科書にはその言葉はなくなっている、とあります(注5)。要は、スペインやポルトガル、オランダの船が、アジアとかアフリカに出てくる前から、とっくに航路も発見されてたし、立ち寄る港も整備されてたし、東アジア・東南アジアからインド洋まではジャンク船が、インド洋からアラビア半島の間はダウ船が行き合い、盛んに貿易が行われてた。ヨーロッパの国々がアフリカ航路を回ってアジアを目指し始めた頃が「大航海時代」の始まりではないと。

Dain:多くの国がやっている中にヨーロッパの連中が加わった。フェルディナント・マゼランが回ったルートも現地の人が回っていたルートをつないだだけなんだということでしょうか。山川世界史の第8章に「ヨーロッパ人による航海と探検」の図があるのですが、世界を縦横にかける航路が描かれています。これだけ見ると、あたかも、ヨーロッパ人が世界の海をつないでいるように見えます。

読書猿:僕らの時代にはなかったけれど、最近の教科書には出てくるイブン=マージドという人がいます。1498年にヴァスコ=ダ=ガマの船がケニアのマリンディに到着したとき、幸運にもイブン=マージドを水先案内人することが出来て、おかげで無事インドのカリカットまで行くことができた、という「インド航路発見」のエピソードとともにヨーロッパで著名なイスラム教徒の航海士です。

 この逸話じたいはちょっと怪しいんですが、『航海術の原則と規則の情報についての有用な書』という、天測航法やインド洋への海路について天候のパターンや危険な海域について述べた、航海知識の百科事典みたいなアラビア語の著作で有名な人で、「海洋の獅子」とか「インド洋の教師」みたいな二つ名がある。ヨーロッパ人もオスマン人も、インド洋について限られた知識しか持っていなかった時代、イブン=マージドのこの本は広くアラブ人の船乗りに用いられていました。ヨーロッパ人の「大航海時代」は、こうした先人の経験と知識を参照することでも可能となった。ヨーロッパ人の目的じたい、アジア~インド~アフリカのそれぞれで既にできていた貿易ネットワークに、後から参加することだったんです。

(注2)たとえば『新日本史B 改訂版』(山川出版社、2018発行)p.143だと、「鉄砲を伝えたとされるポルトガル人は、おそらく1542(天文11)年、シャム(タイ)から中国人密貿易商の王直の船に乗って種子島に着いたものとみられる」とあります。
(注3)歴史教科書における鉄砲伝来に関する史料は、南浦文之『鉄砲記』とガルヴァン『新旧発見記』の2つ。漂着した年に差はあるが、この2つの史料であることは、昔も今も変わっていない。
(注4)例えば『詳説世界史研究』(山川出版社、2017)p.228で、中国人倭寇の王直が紹介されています。
(注5)帝国書院『新詳世界史B』(2021発行)p.146を見ると「大航海時代」の言葉そのものは残っていますが、カッコ書きになっています。コロンブスが「新大陸」を発見したみたいに。ヨーロッパ中心史観からすると、「大航海」だし「新大陸」だけれど、ヨーロッパ人以外からすると大きくも新しくもないという、反語的な意味を込めたカッコ書きの強調だと思います。

教科書が無味乾燥で疲れたら読む一冊

読書猿:Dainさんのように教科書を学び直したい人に、おすすめのスゴ本があるんです。『最新世界史図説タペストリー』です。

「教科書を読め」といってもね、あえてどの教科書かとはいいませんが、文字ばっかりで無味乾燥だといわれてしまう。でも、この図説はフルカラーで、もう図解と映像資料のてんこ盛りです。しかも改訂し続けてるし、驚くほど安い。

 もともとは教科書と併せて使うようにできているんですが、併せるのは何も高校教科書じゃなくていい。たとえば前回の記事で紹介した『岩波講座 世界歴史』みたいな本を読んでいる時にも役に立つ。実は、Dainさんがあげられた『市民のための世界史』でも併せて読んでほしいと、推薦されています。

 たとえば「環太平洋革命」のところですが、ざっくり、7年戦争の後にイギリスが1人勝ちするわけですが、『タペストリー』ではまさに7年戦争の後のイギリス、フランス、スペインの対応を図解してある。この図は、私が『タペストリー』の図を参考にPlant UMLという描画ツールのシーケンス図を描く機能で描いたものです。

 実は、『タペストリー』を10倍楽しく使う方法じゃないですけど、更に追加コンテンツが公開されてるんです。帝国書院が高校の先生向けにつくっているページで、その名も「高等学校 世界史のしおり」。「世界史のしおり」は、世界史ご担当の先生方への情報提供を目的に作成している定期刊行冊子です。授業展開例や新しい学説等を掲載しています。(2019年度まで発行)それこそタペストリーを使った授業案なんかもあります。知りたいキーワードでこのしおりを検索すると、いろいろうれしいと思います。

Dain(だいん)
書評ブログ「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」管理人
ブログのコンセプトは「その本が面白いかどうか、読んでみないと分かりません。しかし、気になる本をぜんぶ読んでいる時間もありません。だから、(私は)私が惹きつけられる人がすすめる本を読みます」。2020年4月30日(図書館の日)に『わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる』(技術評論社)を上梓。