「そうだアリサ、最後に……明るい教えをひとつ教えてやろう。『祝福できないならば呪うことを学べ』」

「の、呪う!?」

「そうだ。祝福できないならば、祝福できない自分を恥じて、自分の気持ちを否定することはない。徹底的に呪うのだ。時にはダース・ベイダーのようにフォースをダークサイドに堕おとしたとしても、そうやって自分の本心を誤魔化すことなく、生きるのだ」

 ニーチェはまっすぐな目をしてそう言った。

 この言葉は、私が今日Twitterで見かけて励まされた言葉、そのものであった。

 呪う……とまでいくと大げさだが、ニーチェの過激であっけらかんとした言葉に、私の心は軽くなっていた。こんな言葉に心が軽くなってしまう私は最低かもしれないが、道徳を鵜呑みにすることしか頭になかった私には、ニーチェの教えが明るい言葉のように思えた。

 そしてベンチの端に座っていたはずが、いつのまにか位置がだいぶずれていた。知らないうちにニーチェの話に夢中になっていたのだろうか、姿勢も矢吹丈のように、ずいぶん前かがみになっていたのだ。

「アリサ、夜も更けてきたから、人通りもないぞ。どうだ、あの木は。あの木に釘を打ち付けてみてはどうだ!?」

「えっ、呪えって本気で言っているの?」

「そうだ、釘が嫌ならば、“鉄輪の井戸”というのが五条にあるらしいぞ。なんでもその井戸の水を汲んで飲ませると、そいつと縁がぷっつり切れるそうだ。
 まあ、いまはペットボトルの水を持参して、祈祷したものを飲ませるらしいのだが」

「ちょっと怖っ!そんなことしないよ」

 本気なのか冗談なのかわからないが、ニーチェはやたらと呪うことをすすめてきた。なぜそんなに呪うことばかりすすめるのかと問いただすと「自分を偽ってまでお前は何になりたいんだ?」とあっけらかんとして答えたのだった。

「では、そろそろ帰るとするか。また会おうアリサ!無知なお前が強く生きていけるように超人になれるように、また哲学を教えてやろう!」

 しばらく話しこんだあと、ニーチェは突然立ち上がると、そう言った。

「え?帰るって、ニーチェはどこに帰るの?また神社に戻るの?」

「何を言っている。山に戻る、とでも言いたいところだが、こうして現世にいる間は家に住んでいる。この道をずっと先に行ったところにある」

 そう言うと、ニーチェは哲学の道の奥の方を指差した。

「そうなんだ、なんだかよくわからないことが多くてまだ混乱してるけど、ニーチェも普通に京都で生活してるんだね」

「まあ、現世にいる間の、仮住まいだけどな」

「仮住まいってことは、またいつかいなくなるってこと?」

「まあいつかはいなくなるが、それはまたいつかの話であって、いまではない。心配するな、それまでにお前に“超人”になる術を叩きこむ」

 そう言うと、ニーチェはこちらに右手を差し出してきた。一瞬戸惑ったものの、私も右手を差し出し、ニーチェと握手を交わす。

「正直、ちょっとまだ不思議な感じだけど今日はありがとう。ところでさっきから言っている、その“超人にしてやる”ってまだよくわからないんだけど、なんだっけ?」

「そうだな、詳しく話すと長くなるので、また次に会った時に詳しく話そう。
まあ、簡単にいうならば、どんな不条理にも負けない、強い精神に鍛え上げてやるということだ。絶対なんて幻だ。絶対的なものがない世の中で、アリサが強く生きていけるよう鍛え上げてやろう。ではな、アリサ。また近々、こちらから伺うことにしよう」

「え、近いうちっていつ?ニーチェの連絡先も何も知らないよ?」

「まあ、そう心配するな。必ず私から伺うと約束しよう。これだけは、絶対だ。じゃあな」

 ニーチェはそう言い残すと、こちらに背を向け、哲学の道の奥の方へと去っていった。

 あっという間の出来事に圧倒されながらも、私は、ニーチェの背中をその場で呆然と見送った。外灯がぼんやりとした灯りを落とし、夜風は雲を勢いよく吹き流す。

 今日起こった出来事は、まだにわかに信じがたい、というか夢を見ているようなふわふわした不思議な心地に私は包まれていた。

 しかし、ニーチェに出会う前よりも、心は少し軽くなっていた。

 哲学は、頭が重くなるものではなくて、心が軽くなるものなのだろうか?

 そんなことを考えながら、私は今日起こった出来事を、ゆっくりと思い出しながらバス停へと歩く。

 澄み切った空気の中、ローファーで踏みしめたじゃりの音だけが、静かに響いていた。まるで、私に歩んでいることを気づかせるかのように、一歩一歩しっかりと足元で響いていた。(つづく)

【『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』試読版 第6回】そうだアリサ、最後に……明るい教えをひとつ教えてやろう。

原田まりる(はらだ・まりる)
作家・コラムニスト・哲学ナビゲーター
1985年 京都府生まれ。哲学の道の側で育ち高校生時、哲学書に出会い感銘を受ける。京都女子大学中退。著書に、「私の体を鞭打つ言葉」(サンマーク出版)がある