多忙なのは、自分の価値を
うまく示せていないから
ここにいまは亡きノーベル賞物理学者、リチャード・ファインマンが、インタビューの中であまり正統的でない生産性のための方策を説明したものがある。
「真に優れた物理学の研究をなすには、まったく途切れることのない時間がどうしても必要で……それには十分な集中が必要で……もし何であれ管理する仕事を持っているなら、空いている時間はない。そこで、私は自分のために新手の神話を考え出した。つまり、私は無責任だ、というものだ。私は積極的無責任である。私はみんなに、私は何もしないと告げる。もし誰かが入学審査委員になるよう頼んできても、『ノー』と言う。私は無責任なのだ」
ファインマンは大学の管理業務を断固拒否した。プロとしてのキャリアで最も重要なこと、つまり「本当に優れた物理学の研究」が、十分にできなくなることがわかっていたからだ。
ファインマンはおそらくメールの応答が苦手で、もし彼をオープンオフィスに移らせようとしたり、彼にツイッターをするよう求めたりすれば、他の大学へ移ってしまうだろう。
重要なものが明快であれば、拒否するものが明快になる。
大学教授の例を挙げたのは、彼らが知的労働者の中ではいくらか例外だからで、大半が仕事を首尾よくやる方途を明らかにしない。社会評論家、マシュー・クロフォードは述べている。「マネジャーたち自身、精神的に混乱した状態で生きており、果たさねばならない漠然とした責務に心を悩ませている」
クロフォードは特に知的労働に従事する中間管理職の苦境を述べているが、「精神的な混乱」はこの部門の多くの職業に当てはまる。2009年の手仕事への頌歌『魂の手技としての工場階級(Shop Class as Soulcraft)』で述べているように、彼はワシントンDCのシンクタンクを辞めてオートバイ修理工場を開き、まさしくこの混乱から抜け出した。壊れた機械と取り組み、やがて首尾よくいったという手応えを味わうことで、彼は確かな達成感を得る。
多くの知的労働者にとって、同様の現実が問題を生んでいる。彼らは生産力あるチームメンバーで、生活費を稼ぎ出していることを示したいと思っているが、そのために必要なものがはっきりとはわかっていない。彼らには自分の価値の証しとなる、修理済みのオートバイを並べたラックはない。この隔たりを埋めるため、彼らは生産力がもっと広範に見られた最後の時代、つまり工業の時代に戻っていくように見える。
知的労働者は目に見えて多忙になっているが、それは自分の価値をうまく示すことができないからだ。この傾向に名をつけるとこうなる。
生産性の代用としての多忙:仕事において生産力や価値があるとはどういうことかを示す、明確な指標がなければ、多くの知的労働者は工業における生産性の指標に戻っていく。つまり、目に見える形で多くのことをなすことである。