隆嗣は後部座席に王紅と並んで座った。彼女が運転手へ指示する。

「家へ戻るわ」

 濃紺のBMWがホテルエントランス前から滑り出して行く。

「今からお宅へ向かうのですか? 会いたいという人は……」

 王紅のやや思いつめたような顔を窺いながら尋ねた。

「あなたにお会いしたいと言っているのは、我が社の董事長です」

「董事長? ……それはつまり」

「私の夫です」

 そう言ってから唇を堅く閉じた彼女に、それ以上無理に問い質すのは止めにした。会社の実質上のオーナーは、やはり彼女の夫だったのだ。隆嗣は、共産圏の不動産業で成功した闇の政商の顔を想像しながら車の揺れに身を任せた。

 

 一方の王紅は、今朝の出来事を思い出していた。

 朝食のテーブルを挟んで、いつものように夫と仕事の打ち合わせをした。東洋ハウスとの交渉経過を報告する中、ついでにと話した余談に、思いがけず夫が激しく反応した。

「とても上手な中国語を話す日本人が通訳で来たの。なんでも、20年前に上海の華盛大学へ留学していたそうよ。あなたが上海にいたのも、たしか20年前よね」

 すると、夫は掴みかかるように身を乗り出し、なかば叫ぶように問い質した。

「その人の名前は?」

「イータン(伊藤)よ」

 その名を聞くと、夫は目を閉じて俯いた。

 結婚してから12年、この人が、こんなに動揺するのを初めて見た。私はダイニングボードの上に置いていたハンドバッグを取ってきて、中から1枚の名刺を夫へ差し出した。その紙片に書いてある『伊藤隆嗣』という文字を指でなぞりながら、なんと彼は涙を滲ませ始めた。

 そして、彼の長い昔話を聞いて、私も一緒に頬を濡らした。

(つづく)