セイラー教授の功績
汗水たらして稼いだお金と“あぶく銭”は違う

 このように、行動経済学は規範ではなく、実際の“生身の人間”の行動を対象にして理論を展開してきた。セイラー教授の問題意識は極めて明白だ。1994年に執筆された論文の中でセイラー教授は「もし多くの個人が同じような間違いを犯すとすれば、合理性を前提としている理論は彼らの行動の予測という点で間違いを犯すであろう」と述べている。同氏は伝統的な経済学への問題意識をもとに、より普遍性のある理論構築を目指してきたのである。

 セイラー教授の功績の代表例としてメンタルアカウンディング(心理勘定、心が行う会計処理)が紹介されることが多い。わたしたちは、汗水たらして得た10万円は大切に使おうとする。一方、ギャンブルなどで手に入れた10万円は、何も考えずにすぐに使ってしまいがちだ。

 伝統的な経済理論に従えば、同じ10万円という金額(経済価値)が等しいにもかかわらず、“労働の対価”、“あぶく銭”などのように、心の中で勘定科目が設定され(お金に色分けがなされる)、行動に違いが生じる。そこに人間の心理が働いている。まさに、心の中で違った会計処理を行っているのである。

 セイラー教授の関心は極めて広い。1970年代以降に執筆された論文は、個人の消費と貯蓄、公共政策、財政問題、犯罪と司法の関係、投資家の行動など多岐にわたる。1985年にメンタルアカウンティングに関する論文が発表される以前から、セイラー教授が実社会への問題意識をもとに膨大な行動経済・ファイアナンス理論の精緻化に尽力されてきたことが重要だ。

 その蓄積の結果として、セイラー教授は一般向けの“わかりやすい”書籍を多く執筆されてきた。2008年に刊行された“ナッジ(Nudge: Improving Decisions on Health, Wealth, and Happiness)”は同教授の集大成の一つと言えるだろう。

 ナッジとは、肘で相手を軽くつつくという意味だ。例えばビュッフェの陳列を考える際、野菜類を手前に、肉類を奥に置くことで、個人の選択を尊重しつつ、大勢の人の栄養の偏りをなくすことができるだろう。ミクロレベルでの意思決定を重視しつつ、より大きな規模での幸福感を高めることは、経済政策などを運営する上でも重視されている。

 セイラー教授の功績は時として非合理的な決定を下すこともある私たちの行動様式を冷静に見つめ直し、より良い意思決定の在り方を目指してきたことにある。