名店といわれる店を4つも興した蕎麦職人がいる。その集大成ともいえる日本橋「仁行(にぎょう)」。極細なのに腰がある「水こし蕎麦」を自在に変化させて作り上げる蕎麦懐石は、大人の宴にうってつけだ。
神田「いし井」に始まり4店めの「仁行」まで
その蕎麦職人には伝説がついてまわった
手打ち蕎麦屋には伝説がいくつかある。古くは江戸時代後期に「更科」の大看板を興した布屋太兵衛、昭和には「一茶庵」を創始し、現在の手打ち蕎麦の隆盛の種を撒いた“蕎麦聖”故片倉氏。現代では蕎麦屋ニューウエーブの生みの親、蕎麦屋モダニズムの旗を立てた柏「竹やぶ」の阿部氏、二八蕎麦の美学を完成させた蕎麦の伝道師、「翁達磨」の高橋氏だ。
そして、もう1人がこの日本橋「仁行(にぎょう)」の石井仁さんだろうか。
石井さんの蕎麦屋人生は誰も真似のできない歩みをしてきた。まずは1992年、神田で手打ち蕎麦屋「いし井」を興し、瞬く間にその名を上げた。
しかし、開店から6年後、石井さんは突然姿を隠し、蕎麦通を大いに嘆かせる。今思えば、その時にすでに「いし井」伝説は始まっていた。
「いし井」の閉店後しばらくして、石井さんは修善寺に「朴念仁」を開業する。1998年のことだ。石井さんの開業を聞きつけた数寄者はこぞって「朴念仁」に走った。時代は手打ち蕎麦屋ブームの入り口の頃で、「朴念仁」の評判が広まると、修善寺までわざわざ東京から大勢が押しかけたものだ。ちょうど電動石臼が普及し始めた頃でもあり、「朴念仁」の自家製粉蕎麦の美味しさに感嘆したものだった。
石井さんの伝説はそれだけでは終わらない。2005年には、銀座にコース料理をメインにした「古拙」を立ち上げる。「古拙」はすぐにミシュランガイドで星を獲得する。
そこからがまた尋常の人ではなかった。石井さんは「古拙」の名を他に譲って、2010年12月には4店目になるこの「仁行」を興した。この新店にもミシュランの星が付くのだから、いかに石井さんの評価が高いかがわかる。