日大だけじゃない
大学はみんな不祥事に慣れっこ

 なんてことを言うと、日大を厳しく批判しているように聞こえるかもしれないが、たまたま分かりやすく針が振り切れているだけで、大なり小なり、すべての大学に共通するカルチャーでもある。

 なぜ大学に生きる人々が、世の中に対して説明責任を果たそうという感覚が希薄になってしまうのかというと、この世界にいると「不祥事」というものに日常的に直面するということが大きい。

 まず、学生がさまざまな問題を起こすことは言うでもない。運動部の体罰やリンチみたいなものもあれば、一般学生も暴力事件、集団強姦、痴漢、盗撮、窃盗、最近ではSNSでの殺害予告やバイトテロなどなど、多種多様なトラブルを起こす。そこに加えて、教授や講師、職員も、アカハラやセクハラ、研究不正などで火だるまになるリスクもあるし、学内選挙の時期になると、学長や理事長ら経営陣の「怪文書」もバラまかれる。

 もちろん、我々の耳に入るようなものは氷山の一角に過ぎず、水面下では表沙汰にならない多種多様な不祥事がうごめいている。それが「大学」なのだ。

 こういう世界に頭までどっぷりと浸かってウン十年も過ごせば、「危機」というものに対して鈍感になり、起きたことを世間に説明しようという感覚が希薄になっていく、というのは言うまでもあるまい。

 たとえるなら、戦場で人間の死体を毎日のように見ているうち、「死」というものに対して鈍感になって、命を尊ぶという感覚が希薄になっていくのと同じだ。

「非日常」が「日常」になってしまったことがもたらした危機意識のマヒ。それを、これ以上ないほど分かりやすく表しているのが、内田氏の「世間は叩きたいだけ」という世界観なのだ。