米国戦略が大当たり
トヨタと提携も急成長の光と影
スバルはこの約10年間、まさに六連星(むつらぼし)のごとく輝きを放ち続けていた。
2008年度にリーマンショックで赤字に転落したが、2000年代に着々と行った種まきが、その後の成長につながった。
その一つが05年にトヨタ自動車と結んだ資本・業務提携だ。これにより、スバルは、低稼働に悩んでいた米国工場(SIA)でトヨタのセダン「カムリ」生産を受託し、採算を劇的に好転させた。
また、トヨタグループのダイハツ工業からOEM(相手先ブランドによる生産)供給を受けることで軽乗用車生産から撤退し、開発・生産リソースを、より利幅が大きい登録車に集中させることを可能にした。スバルにとって軽乗用車は、1958年に発売した日本初の大衆車「スバル360」に代表されるように車造りのルーツといえる存在だが、思い切った「選択と集中」を断行したことで高収益体質の下地を整えた。
90年代から地道に改良を重ねた運転支援システム「アイサイト」も08年に実用化にこぎ着け、スバル車の安全性能の評価を高めた。アイサイトは人の目と同じように、左右二つのカメラで立体的に歩行者や自転車などを識別する。高価なレーダーを必要とせず、量産効果でコスト低減に成功した。
また06年に社長に就いた森郁夫氏は米国を「最重点市場」に位置付け、米国で求められる商品への設計変更やディーラー網の強化に着手。その後を継いだ吉永泰之氏も、限られた経営資源を米国市場に集中する戦略を取った。これが大当たりし、「レガシィ」や「インプレッサ」など主力車種の新型モデルが、リーマンショック後の米国経済の回復と相まって飛ぶように売れた。
営業利益率は国内自動車メーカーでトップの10%超えを実現し、15年度には5656億円という史上最高益をたたき出した。
ところが、である。こうした飛躍の陰で、数々の不正が横行していたのだ。
恵比寿と群馬の埋め難い距離
工場内部に小集団
不正発覚前の昨年5月、当時社長の吉永氏が、本誌のインタビューでこのようなことを話していた。
「私は群馬工場育ちではないので、私の号令では(工場は)動かない」
少し補足が必要だろう。航空機メーカーの中島飛行機を発祥とするスバルの強みは、前述の「アイサイト」や「水平対向エンジン」に代表される他メーカーにない独自の技術だ。故に伝統的にものづくりの現場が強い。
営業出身の吉永氏は、技術者や生産現場への敬意を込めて「私の号令では動かない」と語ったのだろうが、その言葉から透けて見えるのは、東京・恵比寿の瀟洒な本社ビルと、太田市の工場との間にある、埋め難い距離だ。