日本では、どのムラに所属するかによって、「物の見方」や善悪の基準が大きく変わる。これは「いじめ」を引き起こしやすい構造であり、日本社会を歪める元凶ではないだろうか。なぜ日本人は集団の物の見方に感染してしまうのか。なぜ個人の見方は、いつの間にか乗っ取られてしまうのか。15万部のベストセラー『「超」入門 失敗の本質』の著者・鈴木博毅氏が、40年読み継がれる日本人論の決定版、山本七平氏の『「空気」の研究』をわかりやすく読み解く新刊『「超」入門 空気の研究』から、内容の一部を特別公開する。

日本人はどのムラに所属するかで倫理観が変わる

 日本はムラ社会であり、ムラには独自の善悪の基準があります。産業や共同体ごとに独自の論理があり、それぞれに「独自の物の見方」があるのです。

 政治家の善と国民の善は同じではないかもしれません。特定の利権産業団体の善が、市民にとって悪であることもあります。

 山本七平氏は、日本人はどのムラに所属するかで善悪の基準がコロコロ変わる「情況倫理」に陥ると指摘しています。

 一方、その対比として、山本氏は西欧の「固定倫理」も紹介しています。

 メートル法のように、規範を非人間的な基準においてこれを絶対に動かさない場合は、その規範で平等に各人を律すればよい。この場合の不正は、人間がこの規範をまげることである(*1)。

 固定倫理をイメージするために、次のような解説もしています。

 餓死寸前に一片のパンを盗もうと、飽食の余興に一片のパンを盗もうと、「盗み」は「盗み」として同じように処罰される(*2)。

 しかし日本社会の情況倫理では、「餓死寸前で一片のパンを盗む行為は、同情の余地がある」という“物の見方”がある場合、罪は軽くなります。逆に、「裕福な者が余興のために一片のパンを盗むのはけしからん」と見るならば、罪は重くなるのです。

 日本の犯罪報道を聞くと、殺意があったか否かが罪の計量に影響を与えることがわかります。被害者の悲惨な結果はまったく同じであるにもかかわらずです。情況倫理が働く日本社会では、集団の物の見方で行為への評価が違ってしまうのです。

情況に流された人間は、有罪か無罪か?

 情況倫理について、山本氏の指摘を見てみましょう。

「あの情況ではああするのが正しいが、この情況ではこうするのが正しい」(中略)、当時の情況ではああせざるを得なかった。従って非難さるべきは、ああせざるを得ない情況をつくり出した者だ(*3)

 これは、「特定の物の見方」に支配された集団に放り込まれたことで、自分も倫理の基準を変えざるを得なかったのだ、という釈明、言い訳と捉えることができます。

 山本氏は、これを一種の自己無謬性、責任が自分にはないという主張だとしています。

 情況の創出には自己もまた参加したのだという最小限の意識さえ完全に欠如している状態なのである(中略)、この考え方をする者は、同じ情況に置かれても、それへの対応は個人個人でみな違う、その違いは、各個人の自らの意志に基づく決断であることを、絶対に認めようとせず(*4)

 なぜ情況が生まれたことに、全員が加担したと言えるのでしょうか。

 共同体の物の見方の形成は、参加者たちがその考え方を放置して、反論や批判をしなかったことが原因の一端だからです。誰かの言葉にあなたが反対せず、別の視点を投じなかったことが、集団の情況(物の見方)の支配を加速させたのです。

 さらに言えば、集団の情況にのみ込まれるかどうかは人によって異なり、当然、共同体の物の見方に流されない人もいます。集団の情況にのみ込まれるか否かは、実は100%個人の決断であり、悪いほうに倫理基準を変えた自己の責任を情況のせいにしているだけなのです。

(注)
*1 山本七平『「空気」の研究』(文春文庫) P.123
*2 『「空気」の研究』 P.123
*3 『「空気」の研究』 P.108
*4 『「空気」の研究』 P.112~113