では「空気」と「情況」はどう違うのか?

 これまでの議論では、「空気」と「情況」の区分を明確にしてきませんでした。ここで両者の違いをはっきりさせるために、『「空気」の研究』の文面を見てみます。

 (当時の情況ではああせざるを得なかったという言葉に対して)
 この論理は、「当時の空気では……」「あの時代の空気も知らずに……」と同じ論理だが、言っている内容はその逆で、当時の実情すなわち、対応すべき現実のことである(*7)。

 空気の拘束でなく、客観的情況乃至は、客観的情況と称する状態の拘束である(*8)。

 山本氏の文章から、「空気」と「情況」を次のように定義してみます。

「空気」=ある種の前提
「情況」=前提を起点にして形成された、集団の物の見方

 ほとんど似た意味に思われる方もいるかもしれません。二つの最大の違いは、「空気」は公にできない秘密の前提であることが多いことです。

 戦艦大和の沖縄特攻が「空気」によって決定されたことはすでにご説明しましたが、それは、大和が戦わずに敗戦を迎えることは許されない、という海軍上層部の“前提”が起点となっています。

 しかし「戦って撃沈されること」が特攻の目的であるなど、大和の艦長や乗組員、兵士の家族や関係者の前では口が裂けても言えません。

 したがって、空気(前提)から発生した情況「大和の特攻は不可避である」だけが外に出てきて、集団の中で連呼されて次第に支配的な考え方にさせられるのです。

“空気”そのものの、論理的正当化は不可能である(*9)。

 これは当たり前でしょう。

日本人は「状況倫理に流されやすい」

 大きな共同体の中で、ごく特定のムラだけに都合のいい前提など、公表できるわけがありません。特定のムラと共同体全体で、大きく乖離している前提を正当化しようとすれば、全体側から激烈な怒りが生まれるからです。

 だからこそ、空気は隠蔽され、物の見方(情況)だけが外に出てくるのです。

 山本氏は情況を、「当時の実情すなわち、対応すべき現実のことである」と述べていますが、情況は「大和の特攻は不可避である」など、会議の席などで支配的な意見として続々と表面に出てきます。情況は空気のように隠蔽されず、対応すべき現実、圧力として目の前に迫ってくるのです。

(注)
*7 『「空気」の研究』 P.108
*8 『「空気」の研究』 P.108
*9 『「空気」の研究』 P.112