「自分の見方」はやがて乗っ取られる

 前述した『いじめの構造』には、空気と情況倫理に酷似する指摘があります。

 学校の集団生活によって生徒にされた人たちは、[1]自分たちが群れて付和雷同することによってできあがる、集合的な場の情報(場の空気!)によって、内的モードが別のタイプに切り替わる(*10)。

「友だち」の群れの場の情報が個をとびこえて内部にはいり、内的モードが変化した。「何かそれ、うつっちゃうんですよ」という発言は、群れに「寄生され」て内的モードが変化させられる曖昧な感覚をあらわしている(*11)。

 これは山本氏が描写した情況倫理とほぼ同じです。生徒たちは閉じられた共同体で、ある種の前提を共有していき、次第にその前提から発生する「物の見方」に染まっていくのです。

 すると「集団がどのような考え方をしているか」で、生徒たちの倫理基準も変わってしまう。自分で倫理基準を保つ訓練をしていないと、集団の情況(物の見方)に感染してしまい、自己の倫理基準を乗っ取られてしまう。

『いじめの構造』で指摘された生徒の姿は、日本社会の情況倫理の学校版なのです。

(注)
*10 『いじめの構造』P.58~60
*11 『いじめの構造』 P.58

 (この原稿は書籍『「超」入門 空気の研究』から一部を抜粋・加筆して掲載しています)