人間には「不幸になる自由」があるのか?
「私が言っているのは、そういうやむにやまれぬ事情がある状況についてではありません」
「ほう、なるほど、なるほど」
そう言って、感心した素振りをする先生。僕には、倫理がなぜ異議を唱えたのか、その意図が汲み取れなかったが、どうやら先生にはわかったらしい。
「いや、これはすまない。キミが問題にしたかったのは、今のような事情があって死ぬ以外に救いがないケース、つまり自殺権の話ではなく、もっと愚かで無意味なケース、つまり愚行権についての話かな」
「はい」
「わかった。ではこうしよう。たとえば、楽しく毎日を暮らしている普通の人間が、ある日、何かの気まぐれで突然『なんとなく死んじゃおっかなあー』と言い出したとする。その場合、その願いを叶えるのは正しいだろうか―これでいいかね?」
「そうです。そのような場合でも、強い自由主義は『本人の自由だから善し』としてしまうのでしょうか?」
「答えは肯定だ。このケースでも、さっきと答えは変わらない。『殺さなくてもいいし、殺してもいい、自由にしろ』だ」
え! 今度はさすがに同じリアクションを口には出さなかったが、口に出さなかっただけで内心でのリアクションは同じだった。いやいやいや。それはダメだろう。だって、無意味に死のうとしているんだよ。どう考えてもマズいと思うのだが。
「正義くんには、どうやら過激な発言に聞こえたようだね」
口に出さなくても先生のリアクションは同じだった。
「みんなにも言っておくが、『殺してもいい』というインパクトのある言葉に惑わされ、強い自由主義の本質を見失わないでほしい。『殺人の是非』を問われると、どうしても感情的にすぐ結論を出してしまいがちだが、実のところ論点はそこではない」
「強い自由主義における真の論点は、『愚行権の是非』つまり『人間には自分の意志で不幸になる自由があるか?』ということだ。もちろん、強い自由主義は『ある』と考える」
「ここが、強い自由主義と他の主義とを明確に分かつポイントであり、かつキミたちが自由主義を受け入れられるかどうかを決める重要な分岐点となる。無意味な自殺や自傷行為も含めて、ぜひこの論点を考えてみてほしい」