「カネのために働く」が難しい時代

 とはいえ、一度離職すると、なかなか次が見つからない時代です。時間を経るほどに、自信を喪失してしまう。自信がないから面接もうまくいかない。次第にどうせ自分には何もできないと落ち込んでしまう。

 あるいは、なんとか次が決まっても、新しい職場でちょっと叱責されただけで辞めてしまう人も多いようです。自分を否定されるような面接を繰り返すうちに、自尊心や自己肯定感が失われてしまうのでしょうか。そうなると悪循環で、面接にさえ行けなくなって引きこもってしまう。診療所でも、そんな人たちを多く診てきました。

 そこまで深刻な状況に至らなくても、誰もがスレスレのところまで追い込まれた経験があるのではないでしょうか。

 理想や夢と「カネのための仕事」という現実の狭間で悩んだことがある人は多いと思います。けれど、ここでいいたいのは、一度その「前提」を疑ってみてはどうか、ということです。

 世間でいう、あるいは自分で思い込んでいる「やりがいのある仕事」や「自分らしい働き方」とは何なのか、と。

 前回で、次のようなことを書きました。「売れている=いい物」「売れていない=よくない物」という単純なものさしで物事を計る。そこに落とし穴はないか、一見わかりやすい理屈から大切な何かが抜け落ちることはないのか、と。

 「カネには替えられない価値」についても、「コレはいい」「コレは意味がない」と短絡的に線を引いてしまってはいないでしょうか。

 一つ例を挙げて、考えてみましょう。

 昨今、「ベーシックインカム」という制度が話題を呼んでいます。これは、すべての国民に無条件で、最低限の所得を与えるというもの。生活保護などの従来の社会保障に代わる制度として、日本でも導入を検討する動きがあります。

 もちろん、反対の声もあります。たとえば、反対の理由として「フリーライダー」の存在が挙げられます。つまり、制度を支えるための負担をせずに、「制度にタダ乗りする人(=フリーライダー)」が増えるのではないか。反対派はそれを危惧するわけです。

 では、「フリーライダー」とはどんな人を指すのか。ここが問題です。

 たとえば、一日中、浜辺でサーフィンばかりしている人は何も生み出していない。こういう人間がベーシックインカムを受け取るのはけしからん、という主張があります。

 トニー・フィッツパトリックという学者はこれに対し、次のように答えます。「サーファーは何もしていないわけではない。彼らは、サーフィンを見て楽しむ人たちに娯楽を提供しているのだ」と。