ところが、僕は『月刊アスキー』の取材で、メーカーの人たちには面が割れている。しばらくすると、「あれは、アスキーの西じゃないか?」と気づく人が出てきた。NECの向かいが日立のブースだったのだが、日立の人に「ちょっと、ちょっと」と呼び出されて、「西君、あのマシンのソフトはいくらなの?」なんて聞かれた。僕は即座に価格の10倍の数字を言った。そうしたら、その人は「安いね!」と驚いた。
翌日には、沖電気の人がやって来た。そして、また「いくらなの?」と聞かれたので、今度は20倍の値段を口にしてみた。それでも、「安いね!」と驚く。「そうですかねぇ?」なんてとぼけたフリをしていたが、内心では飛び上がるほど嬉しかった。ライバル会社の人たちが、「これは絶対に売れる!」と言ってくれているのに等しいじゃないか。僕の胸は、期待感でムクムクと膨らんでいった。
この予感は的中した。
「PC−8001」は、1979年9月に発売が開始されると、瞬く間に大ヒット商品となったのだ。もちろん、『月刊アスキー』でも大々的に取り上げた。NECは当初、月間2000台を目標に設定していたが、それをはるかに上回る売上だった。売れすぎて、秋葉原のNECショップのレジが壊れたという噂が流れたほどだった。
結局、「PC−8001」は、発売から3年で25万台を販売し、「アップルⅡ」「TRS−80」と並ぶ三大ベストセラーとなった。もちろん、これはNECの技術力・販売力によるものだが、僕にとっても、“デビュー戦”にして大ヒットという名誉となった。そして、日本でもマイクロソフトBASICが、パソコンの業界標準としての地位を確立することになった。
株式会社アスキー創業者
東京大学大学院工学系研究科IOTメディアラボラトリー ディレクター
1956年神戸市生まれ。早稲田大学理工学部中退。在学中の1977年にアスキー出版を設立。ビル・ゲイツ氏と意気投合して草創期のマイクロソフトに参画し、ボードメンバー兼技術担当副社長としてパソコン開発に活躍。しかし、半導体開発の是非などをめぐってビル・ゲイツ氏と対立、マイクロソフトを退社。帰国してアスキーの資料室専任「窓際」副社長となる。1987年、アスキー社長に就任。当時、史上最年少でアスキーを上場させる。しかし、資金難などの問題に直面。CSK創業者大川功氏の知遇を得、CSK・セガの出資を仰ぐとともに、アスキーはCSKの関連会社となる。その後、アスキー社長を退任し、CSK・セガの会長・社長秘書役を務めた。2002年、大川氏死去後、すべてのCSK・セガの役職から退任する。その後、米国マサチューセッツ工科大学メディアラボ客員教授や国連大学高等研究所副所長、尚美学園大学芸術情報学部教授等を務め、現在、須磨学園学園長、東京大学大学院工学系研究科IOTメディアラボラトリー ディレクターを務める。工学院大学大学院情報学専攻 博士(情報学)。Photo by Kazutoshi Sumitomo