日中国交正常化40周年を迎えた9月。その1ヵ月前からメディアに掲載された私の発言は、1つのキーワードで統一されている。耐震構造だ。9月初めに発売された月刊誌『世界』10月号に、私が書いた論考「『中日関係』という建築物に耐震工事を」が載っている。

 その論考の中で、日中関係を40年前の建築基準で作られた建築物にたとえ、築年数40年となったこの建築物は、政治的地震が多発する今の時代に耐えていけない。そのために、耐震補強工事を大至急、行うべきだ、と私は主張している。今回のコラムは、40年来最大の地震に見舞われたこの大変な時期に、日中関係というビルをどう倒壊させずに維持していけるのかを、ビジネスの現場の視点から見てみたい。

日中関係を切り拓いた
先達たちを忘れてはならない

 9月30日夜、NHKスペシャル「日中外交はこうして始まった」が放送された。40年前の日中国交正常化実現までの足取りを振り返る番組だった。この番組をご覧になった読者の方々が気付いたかどうかは分からないが、番組では日本の航空会社2社のシーンが出ていた。1つは、中日国交正常化の直前、日中間で初めてと言われた直行便で北京を訪れた全日空の機材だった。もう1つは、国交正常化を実現するための訪問に臨む田中角栄首相と大平正芳外相らを乗せた日本航空の飛行機だった。

 ナショナルフラッグの日本航空よりも先に国交のない中国に翼を伸ばしたこの全日空のシーンの意味に、私は深く感動を覚えた。その裏に、中国と日本を結ばせるために全心全霊を捧げた全日空の第2代社長だった岡崎嘉平太氏の存在があった。

 実は偶然、NHKのこの番組が放送される約1週間前の9月24日、私はfacebookで「岡崎嘉平太を、知っているか?」と問いかけてみた。1500人もいるフォロワーのなかからわずか2人から、「ANAに基金会がありますね」「岡崎嘉平太が『命をかけた日中友好』に取り組んだのは、中国人留学生の親友との、辛い別れがあったからです。私は氏が亡くなる1年前、テレビでその話を本人の口から聞いて泣きました」という書き込みがあった。