30年間、日本とシリコンバレーを往復していると、日本語の変化に敏感になるのだろうか。最近気になるのは、「させていただく」の乱用だ。
私には言語学のような専門的な素養はない。だが、日本でイノベーションを働き掛けてきた私としては、看過できないのだ。
よく耳にする「拝見させていただきます」のような言葉は、敬語に謙譲語を重ねて丁寧にし過ぎている例だ。ただ、この観点は多くの有識者が既に指摘していることなので、私からさらに加える意見はない。
私が気になるのは、自己責任を回避するような言い回しであることだ。大臣の国会答弁などでよく耳にする「検討させていただきます」はその典型だ。「させていただく」の本来の意味は、「相手に許しを請うことによって、ある動作を遠慮しながら行う意を表す」(出所:デジタル大辞泉)だから、「検討する」ことがそもそもの任務である大臣が、「遠慮しながら検討の許しを請う」のは責任放棄だろう。
単なる言葉の乱れという次元の話ではない。「させていただく」の乱用をもたらした、人々の心の奥深くに巣くう心理を思うと、深刻に心配せずにはいられない。この心理は、巡り巡ってイノベーションを起こすのに必要な心の在り方をも阻害するものになると感じている。