社会人と学生が相手を理解できないと感じるのはなぜ?

「コミュニケーション」は双方向のものであり、お互いに組み上げて「何か」を分かち合う手段である。例えば、同じ職場の同僚間でのコミュニケーションは、発信力が拙くて情報が減衰していても、あるいは、受信力が低くてイメージで補う(思い込みの)量が増えても、分かち合う「何か」を構築することは難しくない。これはそれぞれが持つバックグラウンドや仕事の内容、周辺情報が近しい状況だからである。翻って、親子ほど年が離れた年配の社会人と大学生のコミュニケーションではどうだろうか。2人ともがそれぞれの社会ではうまくコミュニケーションをとれる人たちであったとしても、おそらく分かち合う「何か」を組み上げるのは困難と感じるのではないだろうか。年配の社会人も大学生もコミュニケーション能力は高いといえるが、共通する情報が少ないため、減衰やイメージの補填(思い込み)の影響を受けてしまう。双方のバックグラウンドや周辺情報の違いがお互いに組み上げる「何か」を阻害し、認識がずれたままコミュニケーションが終わってしまう。その結果、相手を理解できないと感じるのである。

 このように、「バックグラウンドや周辺情報が違う異質なコミュニティに属する人とのコミュニケーションは難しい」と多くの人が感じているだろう。そのため、企業の人事担当者も「学生にはコミュニケーション能力が必要である」という認識になり、「コミュニケーション能力は社会人に必須の能力」と捉えているのではないだろうか。

 日常生活において、学生は苦手な人や話が噛み合わない人と話す必要はない。コミュニティそのものの同質性が高く、コミュニケーションをとる相手の多くは同好の士であるからだ。そのため、学生のいう「コミュ力」とは「話すことが上手である」「話すことが面白い」といった点で評価され、「コミュ力が高い・低い・ない」といわれる。それに対して、企業の望む「コミュニケーション能力」は、苦手な人とでもそつなく会話ができる、相手を理解しようと話す、営業場面に代表されるような「敵をつくらずに主張を述べる」といったことである。