不朽#飯田直次郎・高島屋社長×伊藤忠兵衞・伊藤忠商事社長
 高島屋のルーツは、近江国高島郡(現滋賀県高島市)に生まれた飯田儀兵衛が京都に起こした米穀商「高島屋」にある。“高島”は人名ではなく、地名に由来しているのだ。息子のいなかった儀兵衛は、京都の呉服店の奉公人だった新七を娘婿に迎え、その新七が1831年に京都で古着木綿商を始めたのが、現在の高島屋の創業とされている。

 以降、高島屋の当主は「飯田新七」を名乗るのを習いとし、初代飯田新七の娘婿・新太郎が2代飯田新七となり、2代新七の長男・新兵衛が3代新七、次男・鉄三郎が4代新七を襲名した。今回紹介する飯田直次郎(1884年~1952年)は、3代新七の長男。直次郎以降、新七を名乗る伝統は途絶えたが、飯田本家の当主に当たる。

 1884年6月、京都に生まれた飯田は、1912年に東京大学法科経済学科を卒業後、19年に高島屋呉服店(現高島屋)取締役に就任。21年に団琢磨(三井合名会社理事長)を団長とする英米訪問実業団の一員として欧米を視察する。26年に専務取締役となり、42年に社長に就任した。戦後、高島屋を呉服店から近代的な百貨店に転換させた最大の功労者と位置付けられている。

「ダイヤモンド」では1951年1月から9月にかけて、伊藤忠商事の社長・会長を歴任した伊藤忠兵衛(2代目)が、毎号財界の重鎮を招く対談連載を持っていたが、51年5月11日号に登場したのが飯田だった。伊藤忠兵衛(2代目)は伊藤忠商事と丸紅を創業した伊藤忠兵衛(初代)の次男で、伊藤忠財閥の2代目当主。飯田と境遇が似ているのと、商売上でも古くから関係があり、昔話に花を咲かせている。

 また飯田は、読売新聞社や日本テレビ放送網の社長を務めた正力松太郎とは東京大学で共に学生時代を過ごし、当時にあっても最も親しい友人であるとして、話題に上っている。2人の会話はどんどん広がり、最後は趣味である謡曲にまで及ぶ。2人の親密ぶりがうかがえる楽しい対談である。(敬称略)(元ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

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ダイヤモンド1951年5月11日号1951年5月11日号より

飯田 やあ、変わりませんな。お元気で。

伊藤 あなたもお元気で、ご先代は幾つでした。

飯田 若かったな、58ですか。

伊藤 70くらいのおじいさんかと思っておったが……。

飯田 あなたも今度は公益委員で、いろいろご苦労さんです。

伊藤 どうもえらいものになりましてね。

飯田 この間、東京で皆と会ったとき、にわかに日帰りのつもりで、そろって熱海へ出掛けた。

伊藤 何しに?