小菅丹治
 老舗百貨店の伊勢丹は、東京・湯島の呉服店に奉公していた初代小菅丹治が、1886年に東京・神田旅籠町で創業した伊勢屋丹治呉服店が発祥である。

「帯と模様の伊勢丹」との評判を得た人気呉服店を、百貨店に進化させた“中興の祖”は2代目小菅丹治(1882年4月27日~1961年9月16日)だ。関東大震災を経て、1924年3月に百貨店形式とし、30年に株式会社伊勢丹に改組、33年には新宿本店を開店した。

 2代目丹治は、旧名は高橋儀平といって初代丹治の婿養子である。現在の神奈川県小田原市内の農家の末っ子で、小学校卒業後に丁稚奉公に出された呉服店で出世。初代丹治に商才を見込まれて小菅家の婿に入り、2代目丹治を襲名した。「ダイヤモンド」54年12月3日号の「わが一代記」という特集の中には、そんな2代目丹治の「前垂れから百貨店へ」と題された手記が掲載されている。

 手記の最後に2代目丹治は、「私自身への修養の訓」として「何事も“至誠”で貫け」という言葉を挙げている。そして「至誠をさらに三綱五則に分け、三綱は正義の観念、勤勉の意気、秩序の風習。五則は、義務、礼儀、信義、勇気、質素である」と結んでいる。この「三綱五則」は元々小菅家の「家憲」として制定されていたもので、64年までは伊勢丹の「店憲」としても踏襲されてきたものである。

 2代目丹治の没後、伊勢丹の経営は3代目丹治(60~84年社長)が継承したが、4代目の小菅国安(84~93年社長)の時代にバブル経済の崩壊に見舞われ、不動産会社の秀和による株の買い占めや、関東大震災からの再建で世話になった川崎第百銀行の流れをくむメインバンクの三菱銀行(現三菱UFJ銀行)との関係悪化などが明らかになり、国安は辞任。後任を小柴和正に譲って、創業以来107年に及ぶ創業家による世襲は終わりを告げた。

 その後、2008年に伊勢丹は三越と経営統合して、三越伊勢丹ホールディングスに形を変えた。現在の同社の経営理念は、
 「人と時代をつなぐ三越伊勢丹グループ
  変化せよ。
 1.データが自分をつくる。
 2.時代より先に変わろう。
 3.他者が私を新しくする。
  be a newone.」
 というものだ。2代目丹治の時代とは随分と趣が違うが、まさに「変化せよ」ということなのだろう。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

体の上に10人乗っても
降参しないわんぱく小僧

1954年12月3日号

1954年12月3日号より

 私の幼名は、高橋儀平、神奈川県小田原在、山北町の岸という所に生まれた。

 家は代々農家であったが、父などは郡会長を務めたりして一応、田舎では顔を利かせていた方だった。

 兄弟は6人、1人の弟がいたが子供の頃亡くなったので、結局末っ子として育った。

 子供の時分は、随分暴れん坊だった。

 こんなことがある。

 田舎の子供の遊びの中に「降参コ」というのがあった。

 地面に、1人寝転ばして、その上へ、5人、7人、10人と降参と言うまで押し重なるのだが、10人以上になると、大概、耐えられなくなって悲鳴を上げ、降参するものだが、私は10人乗ろうが、何人乗ろうが降参しなかったものだ。

 とうとう私は「降参コ」の仲間からは、別格に扱われてしまったようなこともある。

 子供の頃の自慢話といっても、せいぜいこんなことぐらいなものである。