SNSが誕生した時期に思春期を迎え、SNSの隆盛とともに青春時代を過ごし、そして就職して大人になった、いわゆる「ゆとり世代」。彼らにとって、ネット上で誰かから常に見られている、常に評価されているということは「常識」である。それゆえこの世代にとって、「承認欲求」というのは極めて厄介な大問題であるという。それは日本だけの現象ではない。海外でもやはり、フェイスブックやインスタグラムで飾った自分を表現することに明け暮れ、そのプレッシャーから病んでしまっている若者が増殖しているという。初の著書である『私の居場所が見つからない。』(ダイヤモンド社)で承認欲求との8年に及ぶ闘いを描いた川代紗生さんもその一人だ。当連載では、「承認欲求」という現代社会に蠢く新たな病について様々な角度から考察する(本編は書籍には含まれていない番外編です)。
真逆すぎることが障害になった結婚生活
「結婚は人生の墓場」だと、よく言われる。
自分が結婚するまでは、それがどういうことなのかよくわからなかった。みんながみんな声を揃えてそう言う。「結婚に夢なんかない」と。「妥協するのが結婚だ」と。それくらいの覚悟がなければ、結婚してはいけない、と。
結婚とは諦めであり、諦めの中で、家族の絆が生まれていくのだと、そう聞かされていた。誰からともなく。どこからともなく。私の母と父はそれほど仲が良いほうではなかったし、夫婦でデートをするようなことは皆無だった。それを見て育っていたから、たしかに「結婚は妥協」なのだと実感していたけれど、それでもなんだか、しっくりこなかった。
結婚しているみんなは。他人と家族を作っているみんなは、いったい、何を「我慢」しているのだろうか。
そして、その「我慢」をしてでも誰かと結婚する価値は、あるのだろうか。
私は、23歳で結婚し、24歳で離婚している。
同級生と比べると、かなり早いほうだと思う。同世代でバツイチの人は、見かけたことがない。
まる一年の結婚生活だった。といっても、私と彼は遠距離だったから、一緒に暮らしてはいなかった。
あるいは、一緒に暮らしていたら。暮らし始めてから結婚していたら。そう考えることもあった。
彼はとてもいい人で、優しくて、素直で、どうしてこんなにいい人が私のことを好きになってくれたんだろうと不思議になるくらいだった。明るくて、落ち込むことがなく、しっかりしていて、前向きだった。基本的にネガティヴで、落ち込むことが多く、情緒不安定な私とは真逆のようだった。
真逆だからこそ、救われることもたくさんあったけれど、最終的には、あまりにも真逆すぎることが、障害になってしまった。