「結婚は我慢だ」と言われる本質的な理由
たとえば辛いことがあったとき、私はどん底まで、気がすむまで落ち込むタイプだった。落ち込んで落ち込んで、何が嫌なのか、何が苦しいのか徹底的に考えないと気が済まない。自分の中の苦しみを掘り下げて追究したうえで、原因がわかってからようやく立ち直れる。
けれども彼は、たとえ辛いことがあっても、すぐに解決策を見つけて次に向かっていける。客観的に物事をみて、よし次はこうしたら失敗しないなとか、見方を変えればこうだったから結果的にはよかったとか、前向きになれる理由を見つけるのがとてもうまかった。
一度落ち込んだら時間がかかる自分。
すぐに前を向いていける彼。
どちらがいいとか、悪いとか、そういう問題ではないのだと思う。
きっと、私はうどんが好きだけど彼はそばしか食べられないみたいな、もはや、体質みたいなものだった。
私はそれが嫌で、ひどいわがままをたくさん言った。なぜわかってくれないのかと。理解してくれないのかと。承認欲求の強い私にとって、理解してもらえないということは、大きな苦しみだった。それに、彼ならわかってくれると思っていた。わかってほしいとも思った。
優しい彼は、私に合わせるように、努めてくれた。話を聞いてくれた。だったらこうしようか? と質問をしてくれた。
徐々に、なぜ、優しい彼にここまでさせなければならないのか、わかってわかってとわがままばかり言う自分が本当に嫌になって、苦しかった。
わかりあえる。
わかりあえない。
理解できる。
理解できない。
共感できる。
共感できない。
そんなことを繰り返すうち、私は、なぜみんなが、「結婚は我慢だ」とか、妥協だとか、人生の墓場だとか。そういうマイナスのことばかり言うのか、わかるようになってきた。
人は、簡単に変わることはできないという事実を、認めなければならなかった。
いや、というよりも、誰かの力によって変わってしまうという状況は、多くの場合、不健全なのだ。
硬い鉄板を無理やり筋肉の力でねじまげているみたいに、歪んで軋むような、いやな音がしていた。
私が彼をねじまげようとすればするほど、彼と私の間には歪んだ傷が生まれた。ぎいい、ぎいい、と気味の悪い音がしていた。
「結婚」や「家族」の辛さってなんだろう、とずっと考えていた。
「結婚は我慢だ」と人は言う。それは一体、何を「我慢」しているんだろうと、しばらく考えていた。
今なら少しは、わかる気がする。
きっと、自分の努力じゃどうにもならないことを我慢し続けなければいけないのが、いわゆる「結婚の辛さ」「家族の辛さ」なんだろう。
「自分がどんなに頑張ったとしてもこの状況を変えることができない」という事実は、絶望であり、一種の挫折である。
自分一人のことなら、どうにでもなる。
自分の努力次第で現状が変えられると確信できるなら、苦しみも、耐えられる。
けれども、結婚して、家族をつくって、生まれも育ちも違う人間と一緒に暮らすということは、努力したら必ず結果が出るということでは、ない。
夫婦とか、家族とかの苦しみは、どうにもできない苦しみなのだ。これだけやったらこれくらいどうにかなるとか、そういうのではない。暖簾に腕押ししているみたいな、理不尽さが、そこにはある。
どうしても変えたいと思うものを、もっとよくしたいと思うものを、どう頑張っても変えることができない、だから、我慢しなければならない。その現実に気がついたとき、私は絶望した。
わかりあえない。
理解しあえない。
共感しあえない。
どんなにその人のことが好きでも、大切でも、理解したいと思っても、人間として違いすぎるという歪みに、私は、耐えることができなかった。
あるいは、私は、「共感しあう」とか、そういうことに重きを置きすぎているのかもしれない。
それに耐えられないくらいで、1年で決めるなんて、と思う人もいるかもしれない。
たしかに、私は甘かったのかもしれない。