タイトルが独り歩き
各人の間であいまいな“豊か”の定義

 まず、SNSの盛り上がりの半面、実際に書籍『年収200万円で豊かに暮らす』を読んで内容を知っている人は少ないと見受けられる。主にそのタイトルについてのみ言及している人・考えを巡らせている人が多い……というのが実情である。

「年収」や「豊かな暮らし」などのトピックは全国民にとって人ごとではないからウケが良く話題性もあって、瞬く間に広範囲で取り沙汰されるようになった。だから今は、本のタイトルだけが独り歩きしているようなあんばいである。
 
 もっともSNSを中心に盛り上がっているから、SNSならではのお気楽さもあり、「目についた事柄に反射的に感想を述べておくだけで、議論や理解を深めるつもりはあまりない」といった関わり方をしている人がほとんどであろう。

 そもそも意見を表明している人の間で“豊かさ”の定義が共有されておらず、各人まちまちでフワッとしている。その上に重ねられる議論はどうしたって確固たるものにはならない(その分、意見が霧のように広がって多様になっているさまは見応えがある)。
 
 たとえば、以下のような声がある。

「倹約をしようとしている時点で“豊か”ではありえない」
「お金がなくてもある程度は“豊か”でいられると思うが、年収200万円はさすがにそれを維持できるボーダーを割り込んでいるのではないか」
「自分は年収200万円以下。2食程度抜くのは苦にならない。食べ物が安く手に入るとこの上なくうれしいし、暮らしは充実している。自分は“豊か”である」
「病院にかかるお金を節約したり、不測の事態に備えたお金や、将来に備えたお金を手元に持たずして“豊か”はない。常に不安や破綻と隣り合わせの生活が“豊か”なはずはない」
 
 これらの意見はすべて、“豊か”の定義が共有されていないからすれ違っている。個々の主張にはそれぞれ正当性があるので、「みんな正しいことを言っている」ということもできる。
 
 お金があるほど、できることの選択肢も増えるので、豊かさにつながる可能性は高まる。しかしお金は豊かさを保証するものではない。“豊か”とは、突き詰めれば「個人がどう感じるか」というポイントに集約される類の語である……。
 
 というのが個人的な考えであるが、“豊か”はもっと客観性の介入が可能な語で、第三者の視点やある数値を用いることで、その人の豊かさを正確に測ることができる、と考える人もいる(筆者もその考えを否定する気はない)。
 
 このあたりの考え方の違いも『年収200万円で――』が物議を醸す要因になっている。