高級焼き肉店と回転ずしチェーン
両方に見る“豊かさ”とは

 筆者は、子どもの頃から外食するといえば主に麻布十番の焼き肉店であり、ファミレスにはほぼ行ったことがなかった。よっぽど“豊か”なお子様であるが、当時の自分にはそれが当たり前だったので“豊か”であった自覚はなかった。
 
 回転ずしに初めて入ったのは30歳を過ぎた頃で、「麻布十番の焼き肉店などお高くて、とてもとても…」と感じるようになった今、筆者が世帯主となっている我が家族では、よく回転ずしに行く。回転ずしは一家一丸となって楽しめるので、充実感がある。1食あたりに支払われる金額には雲泥の差があるものの、それぞれ別の豊かさがあり、つまり両方とも“豊か”である。
 
 これが(繰り返しになるが)筆者の“豊か”に関する考え方であり、その上で年収200万円で豊かな生活は可能かどうかを考えてみたい。
 
 結論からいって「可能かもしれないがかなり大変そう」である。おそらく、精神的に豊かに暮らせているが、無駄遣いを我慢する局面は多い。
 
 ただ年収に関係なく、大抵誰もがどこかで無駄遣いの我慢はしているものだ。我慢する物の値段が、収入に応じて高かったり安かったりする、というだけのことで、だから「何も我慢する必要のない超富豪」くらいの境地に達すれば、“豊か”のあるひとつの形が完成するかもしれない。
 
 となると、ほぼ万人が現在進行形で体験しているお金との葛藤(=無駄遣いの我慢など)、その有無はあまり“豊か”には関係ないのではないかと考えられる。「超富豪しか豊かではない」という言説はさすがに荒唐無稽に感じられるからである。
 
 筆者に話を戻すとして、今でも「無駄遣いの我慢」はしているのだから、筆者の年収を200万円に下げれば、我慢すべきものがさらに増える。そこまで年収が減ったら、物理的豊かさの低下にともなって現在の精神的な豊かさすら損なわれるのではないか、という懸念がある。
 
 ただし「住めば都」とも言うし、「きっと年収が200万円になっても、自分は持ち前の楽観性を発揮してなんとか楽しく暮らすだろうなあ」という気もする。生活コストを下げるためにさらに地方へ移住するというのも手かもしれない。その先ではさらなる“豊か”な生活が手に入る可能性がある。

 こんな話を聞いた。

 山陰地方で漁師をやっているある男性の年収が、ちょうど約200万円である。子どももペットもいるので、生活費だけで結構かかりそうなものだが、もともと地元の人との縁があるので捕れた魚で物々交換をすれば物品にそう不足はなく、ローンで庭付き一戸建てを建てて楽しそうに暮らしている。
 
 これも見方次第、見る人次第であるが、“豊か”のひとつの形であると、筆者は考える。