コロナ禍で働き方や生き方を見直す人が増えている。企業も戦略の変更やアップデートが求められる中、コロナ前に発売され「アフターコロナ」の価値転換を予言した本として話題になっているのが、山口周氏の『ニュータイプの時代――新時代を生き抜く24の思考・行動様式』だ。
本書を読んだ人から「モヤモヤが晴れた!」「今何が起きているかよくわかった!」「生きる指針になった!」という声が続々集まり、私たちがこの先進むべき方向を指し示す「希望の書」として再び注目を集めている。
そこで本記事では、本書より一部を抜粋・再構成し、混迷の時代に正しい判断をするためのヒントをご紹介する。
「わがまま」は最高の美徳
かつて20世紀の前半、近代社会のシステムがますます支配的になるなかで、ノーベル文学賞作家のヘルマン・ヘッセは、システムに従順ならざること、すなわち「わがまま」であることの重要性を説きました。
ヘッセは、その名も「わがまま」と題されたエッセーの中で次のように書いています。
問題はただ、誰に服従するかにある。つまり「わがまま」も服従である。けれどもわがまま以外のすべての、非常に愛され、賞賛されている美徳は、人間によってつくられた法律への服従である。唯一わがままだけが、これら人間のつくった法律を無視するのである。
わがままな者は、人間のつくったものではない法律に、唯一の、無条件に神聖な法律に、自分自身の中にある法律に、「我」の「心」のままに従うのである。わがままが、さほど愛されていないのは残念なことである!――ヘルマン・ヘッセ『わがままこそ最高の美徳』より
ヘッセが指摘する通り、わがままというのは一般にネガティブな形容詞として用いられています。特に、組織における同調主義=コンフォーミズムが強く働く日本において、「わがまま」は最も忌避される人格特性の1つだと言えるでしょう。
独立研究者、著作家、パブリックスピーカー
電通、BCGなどで戦略策定、文化政策、組織開発等に従事。著書に『ニュータイプの時代』『ビジネスの未来』『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』など。慶應義塾大学文学部哲学科、同大学院文学研究科修士課程修了。株式会社中川政七商店社外取締役、株式会社モバイルファクトリー社外取締役。
しかし、そのネガティブな形容詞をヘッセは「最高の美徳」だと指摘しています。
その証拠としてヘッセは、現在の私たちが最高の美徳の体現者であったと考える歴史上の人物、すなわちソクラテス、イエス・キリスト、ジョルダーノ・ブルーノらを挙げて、彼らがその当時の社会のルール・規範に対抗して、自分の内面的な道徳・価値観に従った「わがまま者」であったことを指摘しています。
ルールに無条件に服従することの過ち
私たちは一般に「決められたルールに従う」ということを無条件に良いことだと考え、何かを判断しなければならないとき、まずルールを確認し、確認したルールに立脚して判断しようとします。
しかし、このような思考様式には2つの点で大きな問題があります。
1つ目は、そもそも規範そのものに倫理的な問題がある場合、規範に従うことで多くの人が倫理を踏み外すことになるからです。
米国における公民権運動のトリガーとなった「バスボイコット事件」は、工場労働者であったローザ・パークスが、バスの白人専用座席から立とうとしなかったため、警官に逮捕されたことがきっかけで発生しています。
このとき「私は何か悪いことをしたのですか?」と尋ねるパークスに対して、警官は「さあね、でも法律は法律だからな」と答えています。
これは、社会的に設定された規範に従うだけで、内在的にその規範が「真・善・美」に則るものであるかどうかを問うことを忘れてしまった悲惨な人間の典型的な回答です。
このような人間たちには、毅然としてルールに従わず、白人専用の座席から立とうとしなかったローザ・パークスは、まさに「わがまま」に映ったことでしょう。
しかし、このパークスの「わがまま」が起爆剤となってバスボイコット運動へとつながり、それがやがて全米の公民権運動へとつながり、文字通り世界を変えることになったのです。
時代とともにルール自体が変わる
そして、変わる前の世界と変わった後の世界では、規範そのものもまた変わってしまうことになります。
事件「後」の世界の人々から見れば、事件「前」の世界の人々は、いかにも無知蒙昧で野蛮な人々に見えることでしょう。
しかし、ここに落とし穴があります。そう、私たちが現在、考えることなく無批判に従っている規範の多くもまた、これから「後」の時代の人々から見れば、いかにも無知蒙昧で野蛮なものにきっと見えるだろう、ということです。
ヘッセの言う「わがままな人」は、これらの規範が、そもそも規範たり得ていない、ということを多くの人に気づかせるきっかけを作ってくれる人物だということです。
「ルールさえ守ればいい」が破滅を招く
2つ目の問題点として指摘しなければならないのが、このような考え方が強く働きすぎることで、しばしば逆の命題が肯定されるという点です。
それはつまり「立脚点になるようなルールが存在しないのであれば、何をやってもいいのだ」という考え方です。しかし、このようなオールドタイプの思考様式は今日、破滅的な結果を当事者にも社会にももたらすことになりかねません。
なぜ、これまで規範として有効に機能した「ルールさえ守っていればいい」という考え方が破滅的な結果を招くことになるのでしょうか。なぜなら、さまざまなテクノロジーやビジネスモデルの変化に対して、ルールの制定が追いついていない状況が発生しているからです。
このような世界にあって、内在的な価値観に従う、つまり「わがまま」になることなく、外在的な規則だけに従っていればいいというオールドタイプの思考様式は、どこかで決定的なエラーを招くリスクを高めることになります。
このような世界においては、制定されたルールのみに頼らず、道徳や倫理といった内在的な規範に基づいてモノゴトを判断していく必要があります。
そんな曖昧なものに頼るしかないのか、と感じられた方もいるかもしれません。しかし筆者に言わせれば、それはむしろ逆です。
システムに引きずられる形で、いつ後出しジャンケン的に改定されるかわからない明文化されたルールよりも、自分の内側に確固として持っている「真・善・美」を判断する方が、よほど基準として間違いがありません。
(本稿は、『ニュータイプの時代――新時代を生き抜く24の思考・行動様式』より一部を抜粋・再構成したものです)