コロナ禍で働き方や生き方を見直す人が増えている。企業も戦略の変更やアップデートが求められる中、コロナ前に発売され「アフターコロナ」の価値転換を予言した本として話題になっているのが、山口周氏の『ニュータイプの時代――新時代を生き抜く24の思考・行動様式』だ。
本書を読んだ人から「モヤモヤが晴れた!」「今何が起きているかよくわかった!」「生きる指針になった!」という声が続々集まり、私たちがこの先進むべき方向を指し示す「希望の書」として再び注目を集めている。
そこで本記事では、本書より一部を抜粋・再構成し、私たちが目指すべき新しい指標についてご紹介する。
GDPは指標として本当に正しいのか
最近、さまざまなところで「成長経済か、定常経済か」という議論がなされています。これはこれで重要な論点だとは思うのですが、いささか懸念している点があります。
それは、「成長が大事だ」と訴える側も、「定常へ移行せよ」と訴える側も、いずれにせよ「GDPという量的モノサシが議論の前提になっている」という点です。
両者は、一見すると真っ向から対立する意見を交わしているように見えますが、「あるべき社会の状況を規定するモノサシとして経済という一つの指標を当てる」という考え方において、まったく同じなのです。
独立研究者、著作家、パブリックスピーカー
電通、BCGなどで戦略策定、文化政策、組織開発等に従事。著書に『ニュータイプの時代』『ビジネスの未来』『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』など。慶應義塾大学文学部哲学科、同大学院文学研究科修士課程修了。株式会社中川政七商店社外取締役、株式会社モバイルファクトリー社外取締役。
しかし、量的な経済指標のみで社会のあるべき状況が規定できる時代はとっくのとうに終焉しています。つまり、本当に問わなければならないのは「成長か、定常か」という問題ではなく、「経済に代わる、あたらしい質的な指標は何か」という問題であるべきだということです。
この問題についてはすでにさまざまなところで議論が始まっていますが、あらためてここで指摘しておきたいと思います。
今日の日本では「GDP」に代表されるような経済指標は、社会の健全性や厚生度合いを示す指標としてほとんど意味がありません。
このような状況で、ひたすらに経済指標だけを追い求めるのは典型的なオールドタイプの思考パラダイムと言えます。私たちは、経済という指標とは別に、社会の健全性や幸福の度合いを複眼的に計測し、管理するための指標を用いるべき時期に来ています。
100年前の経済指標が今当てはまるか
よく知られている通り、そもそもGDPは100年ほど前のアメリカで、「大恐慌を食い止める」という目的のために、「問題の大きさ」を定量化することを目的にして開発された指標です。
当時のアメリカ大統領、ハーバート・フーバーには大恐慌をなんとかするという大任がありましたが、手元にある数字は株価や鉄などの産業材の価格、それに道路輸送量などの断片的な数字だけで政策立案の立脚点になるようなデータではありませんでした。
次々と企業が破綻し、ホームレスが日に日に街に増えている現状を目の前にすれば、明らかに「何かがおかしくなっている」ということだけはわかったものの、「国全体がどのような状況なのか、それは改善しているのか悪化しているのか」についてはまったく雲をつかむような状況だったのです。
議会はこの状況に対応するために1932年、サイモン・クズネッツというロシア人を雇い、「アメリカは、どれくらい多くのモノを作ることができるか」について調査を依頼します。
数年後にクズネッツが議会に提出した報告書には、現在の私たちがGDPと呼ぶようになる概念の基本形が提示されていました。
GDPという指標が「クソ仕事」を増やす
注意しなければならないのは、もともとクズネッツが依頼されたのは「どれだけのモノを作れるのか」という調査だったという点です。しかし、すでに指摘している通り、現代を生きている私たちにとってすでにモノは過剰な状況になっており、この指標の目盛りをさらに高めることの意味はほとんどなくなっています。
いやむしろ、この指標を高めようとすることによって、かえって「意味」を有さないクソ仕事が蔓延し、大量のゴミが生み出され、環境に大きな負荷をかけていることを考えれば、むしろ弊害の方が大きくなってきている、と言うべきでしょう。
GDPに代表される経済指標は今日、「豊かさ」や「健全性」を示す指標としてはもはや無意味になっています。現在の日本では、「モノ」から「意味」へと価値の源泉がシフトしています。
このような社会において、相も変わらずに価値の大きさを「モノの量」だけで測ろうとするオールドタイプの思考様式を続けていても、「豊かで健全な社会」を築くことはできません。
今、求められているのは、経済指標に代わるような新しい「質的指標」を並立させ、これをしなやかに使いこなすニュータイプなのです。
量的指標は無意味化している
「量的指標の無意味化」という問題は、さまざまな領域で発生しています。
たとえば寿命を考えてみましょう。平均寿命は長期的な伸長トレンドにあり、おそらく近いうちに100歳に届くことになると思われますが、ではこの数字をそこから先、さらに延ばしていくことにどれだけの意味があるかと問われれば、多くの人が答えに窮するのではないでしょうか。
平均寿命が40歳だった社会を倍の80歳に延ばすことの意味と、平均寿命が80歳の社会を160歳にすることの意味はまったく異なります。むしろここで問われるのは「老齢期の人生の質」という問題です。
つまり、寿命についてはすでに「量」の問題から「質」の問題へと重点はシフトしており、「質」の問題が改善されないままに、これ以上「量」の向上を図ったところで、大きなメリットはないということです。
同様のことが家電の性能についても言えます。たとえば、読者の皆さんのご家庭にあるテレビのリモコンには、どうしてこれほどまでの数が必要なのかといぶかしく思えるほどの、膨大な数のボタンがあると思います。
それらの多くは一体どんな役割・機能を担っているのかもよくわからず、結局は一度も使われることのないままに廃棄されているのではないでしょうか。
当然のことながら、これらの機能を付加するためには何らかのコストがかかっています。しかし、受け手側はその機能によるメリットを享受しておらず、そこに効用を認めていません。
つまりコストだけが増加しているのに価値は増加していない、というよりむしろ、機能があまりにも増えたことで使い勝手が悪くなり、かえって効用は低減しているわけです。
こんなことをしていれば生産性が低下するのは当たり前のことのなのですが、「役に立つ」という機能軸での量的向上をひたすらに目指してやってきた日本企業の多くは、それ以外の軸での価値提供を考えることができず、相も変わらずに量的向上を目指して「生産性低下の王道」を驀(ばく)進しています。
(本稿は、『ニュータイプの時代――新時代を生き抜く24の思考・行動様式』より一部を抜粋・再構成したものです)