京都大学経営管理大学院の山内裕教授が立ち上げた、社会人を対象にした創造性育成プログラム「京都クリエイティブ・アッサンブラージュ」のエッセンスを紹介する本連載。今回のテーマは「アート思考」。アートがビジネスで注目を集め、「アート思考」が注目されている。しかしその理由とは何なのだろう? いかにしてアートが資本主義において価値をつくるのか。それは現代において資本主義が限界に直面しており、アートによる資本主義批判こそが、現代における資本主義的な価値になるからだ。この価値の源泉のパラダイムシフトを理解することで、アート思考が現在注目されている本当の理由が分かる。(構成:森旭彦)
資本主義と対立するアート、その歴史的背景
アート思考の基本的な考え方は、不確実で複雑な時代において、ビジネスは理論的思考では生き残ることができず、美意識、感性、身体、感情、自己反省などを働かせることが重要となるというものです。
京都大学経営管理大学院教授
京都大学工学部情報工学卒業、同情報学修士、UCLA Anderson SchoolにてPh.D. in Management(経営学博士)。Xerox Palo Alto Research Center研究員を経て、2010年に京都大学経営管理大学院に着任。価値の最先端が「文化」にシフトする中、人文社会学に基づく文化の経営学を研究している。主な著書には、『「闘争」としてのサービス顧客インタラクションの研究』(中央経済社)など。2021年度から文部科学省価値創造人材育成拠点形成事業として「京都クリエイティブ・アッサンブラージュ」を立ち上げる。
その中で、いくつかバリエーションがあると考えられます。たとえば、アートがビジネスで新しい事業を作るときの創造性の源泉というもの、あるいは、アートを理解することは、ビジネスパーソンは教養のようなものだと考える、といったものです。
しかし、アートはビジネスに役立つのでしょうか? この問いを考えるためには、そもそもアートは、資本主義と対立するものだと捉えることが重要です。資本主義の道具のように捉えてしまうと、そもそもアートではなくなってしまうからです。
たとえばアーティストと聞くと、概ね貧乏で、人間味に溢れ、しばし自己中心的で風変わりですが、自らの目的にまっすぐな人物像を浮かべることでしょう。そうしたアーティストのステレオタイプは、資本主義への対立を表現した小説や映画から来ているわけです。では、どうしてアートはそうしたイメージになったのでしょうか? 歴史を振り返ってみましょう。
舞台はフランス、私たちの考える近代的なアートは18世紀終りごろに生まれたロマン主義から始まります。それまでの模倣(ミメーシス)の原理から、自らの表現を行うというものへシフトしました。天才的個人が自分の内なる自然から創造力を発し、従来の枠組みに収まらないスタイルの芸術を生み出していきます。その後のモダニズム、現代アートは、このロマン主義の延長にあります。
19世紀にはアートが権力そして資本主義に批判的な立場を鮮明にします。18世紀の芸術家は支配者であるパトロンに抱えられ、権力に結びついていましたが、1789年のフランス革命を経て、パトロンは国外に逃げました。一方で、地方からアーティストになることを目指してパリに若者が集まりました。これらの人々は貧しいながら、社会的な規範に反抗し、独自のスタイルを提示していきました。つまり、前衛的なボヘミアンです。ボヘミアンはそれまでの権力に支えられたアカデミーに反発しました。
同時に、その頃立ち上がってきたブルジョワアート市場にも反抗しました。たとえば、演劇や小説などにおいて、大衆に迎合してヒットし、経済的なリターンを得るような芸術家が批判されました。資本家に媚を売り、大衆受けして儲ける芸術は、本当の芸術ではないと考えたわけです。「芸術のための芸術」という運動が起こりましたが、まさに芸術は芸術のためにするものであって、資本家や権力のためにするものではないという主張です。
そして、フランスの哲学者、ピエール・ブルデューが「負けるが勝ち」と表現したことに代表されますが、資本主義の論理を反転させました。市場で成功するとアートでは失敗とみなされるということです。私たちが持つ、アーティストは認められず貧乏な生活に終始し、死後に認められるというようなゴッホのようなイメージはこの頃に生まれました。それはアートが資本主義から自律化し、批判により論理を反転させ、独自の世界を築いてきたからです。
1910年代から始まる近代デザインで、資本主義的な機械生産とアートが結びつく契機はありましたが、同時にダダやシュールレアリズムを通して、芸術はさらに自律化し、純粋化、抽象化していきました。そしてモダニズム芸術が力を失う60年代以降に、再びアートと資本主義は絡み合っていきます。しかしアートと資本主義の対立は現在でも根強く残り、現代アーティストの多くが、資本主義への批判を実践しています。
モノからコト、そしてアートへ
このように本来ビジネスと対立するはずのアートが、なぜ今ビジネスによって求められているのでしょうか? 端的に言うと、現代は資本主義が限界に直面しているからです。
2000年代以降、市場で流通すると一瞬で価値を失ってしまうというサイクルに入りました。資本主義の内部には価値がなく、価値の源泉は資本主義の外部にあることになります。資本主義を批判する実践としてのアートがその外部性だということです。どういうことでしょうか?
前回見たように、90年代前半は、CPUやOSなどの技術自体が劇的に発展し、技術自体に価値を感じることができた時代です。しかし、90年代後半には、そのペースが落ちていき、発展を感じることができなくなります。98年にスティーブ・ジョブズがiMacを導入して衝撃を与えたのは、この文脈です。それまではデザインにお金を使うなら、メモリを増やそうと考えるのが普通でした。98年にはデザインが価値になる土壌ができていたと考えられます。そして2000年のドットコムバブルで注目されたのは、ほとんど最先端技術とは関係のないサービスばかりで、大半が空虚なアイデアでした。
続く2000年に入るとモノ自体に価値を感じられなくなり、「モノからコトへ」やサービスがキーワードになりました。ちなみに2004年には様々な領域でサービスが叫ばれました。マーケティングでは、モノとコトを等しくサービスとして捉える「サービスドミナントロジック」が話題を呼び、ヨーロッパではサービスデザインネットワークが立ち上がりました。モノ自体に価値がなく、サービスで儲けなければならなくなったのです。
そんな中、IBMは2002年にハードディスク部門を日立製作所に売却します。ハードディスクを実用化したシリコンバレーのアルマーデン研究所では、日立に移らず残った研究者が危機感を持って次は何を研究するべきかを考えます。そこで提案したのがサービスを科学的に探求する「サービスサイエンス」というわけです。2004年のことです。まさに、モノからコトへの変化の渦中にいたわけです。
資本主義批判こそが、資本主義で価値になる
ブランドに対する懐疑や反発も2000年頃に始まりました。ナオミ・クラインの『No Logo』が出版されたのが99年です。それは80年代以降の新自由主義の浸透による大企業への批判ですが、そもそも売るために作られるブランドに価値が見出せなくなっただけではなく、批判の対象となったわけです。市場に流通したものが陳腐に見えるようになりました。
資本主義への批判が、資本主義において価値になっていくという構図は、2000年代終りからの社会的起業家への注目、ESG投資がメインストリームになっていくことからもわかります。資本主義の合理性に反するものに価値が見いだされてきました。現在、ナショナルブランドのビールから、クラフトビールに人気が移行していますが、この現象は、従来の大量生産のビールのアンチテーゼだと考えられます。大量生産を批判し、自然の素材で、こだわって作っているビールは、倍以上の値段でも売れるのです。
デザインやデザイン思考に求められていたのは、実はこのアートによる資本主義的な合理性への批判だったのではないかと思います。スティーブ・ジョブズは金儲けに執着したことは事実でしょうが、同時に客には媚びず、自分がこだわるものを作ったと言われます。客に見えないところの配線の美しさにもこだわったと言われています。経済合理的ではないものを体現していたと思います。
つまり、資本主義を批判するものが、資本主義で価値になるようになったのです。ここにアートの重要性があるのです。次回はこのことを詳細に見ていきたいと思います。