消費者のニーズをどれだけ見つめても、「破壊的イノベーション」の事例を踏襲しても、イノベーションが実現できないのはなぜなのか。それはイノベーションが「世界観」の提案であるからだ。京都大学経営管理大学院で「文化の経営学」を専門とする山内裕教授は、イノベーションの背景を読み解き、事業を文化の観点から設計する「文化のデザイン」を提唱する。この連載では、山内裕教授が立ち上げた、社会人を対象にした創造性育成プログラム「京都クリエイティブ・アッサンブラージュ」のエッセンスを紹介。社会で活躍する企業のビジネスリーダーやアーティスト、デザイナーらを取材し、ビジネスに活かせる文化のデザインをお届けする。(構成:森旭彦)

ひとがイノベーションに振り向く時

イノベーションが起きるとき、人々はこれまでになかったものに対して、どのようにして価値を見出すのでしょうか?

アップルの「iMac」に見る、世界観の提案としてのイノベーション山内裕(やまうち・ゆたか)
京都大学経営管理大学院教授
京都大学工学部情報工学卒業、同情報学修士、UCLA Anderson SchoolにてPh.D. in Management(経営学博士)。Xerox Palo Alto Research Center研究員を経て、2010年に京都大学経営管理大学院に着任。価値の最先端が「文化」にシフトする中、人文社会学に基づく文化の経営学を研究している。主な著書には、『「闘争」としてのサービス顧客インタラクションの研究』(中央経済社)など。2021年度から文部科学省価値創造人材育成拠点形成事業として「京都クリエイティブ・アッサンブラージュ」を立ち上げる。

商品自体が技術的に優れているから、でしょうか?

それとも、安いから、あるいは面白いからでしょうか?

多くの場合、消費者の「潜在ニーズ」を満たしたからと考えられています。

じつはイノベーションというものは、「世界観」の提案なのです。違う言い方をすると、価値だけではなく、その価値を理解するための価値基準(=世界観)も同時に提示しているのです。

たとえば、今でこそアップルといえばすぐれたデザインを持つコンピュータをつくる企業です。アップルがデザインに大きく舵を切ったのは1998年、今も商品名で使われている「iMac」を初めてリリースしたときのことでした。

90年代後半、コンピュータは時代の転換点にありました。それまではコンピュータのCPUも劇的に高速化し、メモリ容量も倍々で増えていきました。MS-DOSからWindows 3.1へ、さらにWindows 95への変化は劇的でした。予算に余裕があれば、より高性能なCPUに変更したり、メモリを増やすことが普通の選択でした。

しかし、IntelのCPUである「Pentium」が「Pentium 2」、「Pentium 3」へと進化した頃、人々はそれまでの劇的な成長に変化を感じ始めました。言い換えれば、人々はコンピュータの性能の成長に、新しさを感じなくなってしまったのです。そんな中、98年に颯爽と登場したのが、ディスプレイ一体型のカラフルなiMacでした。それまでは正面から見たデザインしか考えられていませんでしたが、使われない後面も美しくデザインされました。従来のコンピュータとは全く違う世界観を提案したのです。

このiMacを見たとき、人々は思ったわけです。「性能だけが自慢のコンピュータなんて“前時代的”だ」、「これからの時代はデザインだ」と。

iMacはカッコいいデザインだから売れたというだけではなく、新しい世界観を提示したから売れたのです。

新しい世界観が提示されたとき、ひとは「新しい」と言って振り向きます。そしてその世界観の中で「自己表現」をし始めます。iMacを使うということは、古い90年代と手を切り、来たるべき2000年代の人間を演じることでした。これがイノベーションです。

現代において、世界観をつくる役割を果たすのが、文化です。

そうした文化の特徴をとらえていく上で必要になるのが、人文社会学です。人文社会学はとらえどころのない文化を分析し、評価するために生まれた学問です。今回は、人文社会学を少しかみくだいて、価値創造のための資源として使う方法をお話します。

序列をつくる「力」としての文化

なぜ文化が価値創造で重要になるのでしょうか? 文化の語源を辿っていくと、洗練されていくプロセスを指していることが分かります。これは、序列をつくる「力」と言い換えることができます。

文化の語源は、ラテン語の「colere」に遡ります。もともとは「耕す」という意味を持っていましたが、17世紀に「精神を耕す」、つまり成熟させる、教化する、洗練させるという意味に変化していきました。洗練されるということは、野蛮ではなくなるということです。つまり自分を上位に位置付け、他者を野蛮なものとして自己を正当化する、序列化する概念として使われ始めるのです。そしてこの考え方は、基本的には現代においても同様です。文化という言葉がアートと同様に使われることがありますが(たとえば日本では、アートは文化庁の管轄です)、それはアートには洗練されたセンスを意味する一面があるからです。

社会において、個人は文化を自己表現することで、序列をつくる力を体現しています。たとえば私たちは日本の文化を表現して生きています。それゆえ、自分の文化が否定されるとムキになったりします。外国人から「日本の文化はこうだ」などと言われると、自分のことを言われているように感じ、反論したくなりますよね?

序列をつくる力であるがゆえ、人は自分の文化に対する不安も抱えています。他の文化が存在するということは、自分の文化が否定される可能性もあるからです。他よりも優位に立っているうちはいいのですが、それは自分の地位が脅かされることへの不安と背中合わせなのです。

事業において創出されるものも、単なる商品などではなく、文化です。これらの文化も、人々の自己表現の対象となります。たとえば、レストランやカフェなどのサービスでは、洗練された空間や他にない独特の雰囲気を作ります。人々はそうした文化に同一化することで、新しい自己を獲得した感覚を得ます。前回は、文化の対極にあると思われているマクドナルドのようなものでも、60年代の人々に「近代の確証」を与えた文化をつくったことを説明しました。

文化とは個人の、そして事業や社会の自己表現であり、序列をつくる価値なのです。