柳モデルは日本企業全体に
適用可能である

 柳モデルとエーザイでの回帰分析を、日本企業全体にも適用することができるか。筆者とアビームコンサルティングの杉森州平氏の共著論文(柳・杉森 2021)が、その実証結果を報告しているので紹介する。

 この研究では、日本企業全体を代表してTOPIX100構成銘柄に採用された企業※1を対象とし、2000年度~2019年度の20年間分のデータを収集し、柳モデルとエーザイの事例の回帰式で実証を行った。

 分析に耐え得る十分なデータ量を確保するために、対象期間20年間のうちの8割以上の年度で実証分析に使用するすべてのデータがそろうこと、柳(2021)のIIRC-PBRモデル(ESGの価値はPBR1倍超の部分に反映される)に従いPBRが1倍超※2であることを条件として対象企業を絞り込んだ結果、最終的にTOPIX100企業の中の49社を対象として抽出した。

 ESGファクターは、各社の自主開示内容により差異が大きいため、公開情報から財務数値としても取得が可能な、「人的資本としての人件費」と「知的資本としての研究開発費」にESGのKPIを絞り込んだ。

 分析モデルは、基本的には柳モデルとエーザイの回帰分析(柳 2021)で用いた、ROEをコントロールした2ファクターモデル(エーザイの人財計算式)を使用した。

 説明変数が人件費あるいは研究開発費で、被説明変数がPBRである。つまり、財務資本としてのROEの影響をコントロールし、人的資本としての人件費、そして知的資本としての研究開発費をESGのKPIとして、それらが何年後のPBRにどうインパクトを与えているかを検証する回帰式である。

【柳モデルの回帰式(エーザイの人財計算式)】

パネルデータ重回帰分析(対数変換):
ln(PBRci)=α+β1・ln(ROEci)+β2・ln(ESG KPIc(i-t))+μc(i-t)

 人件費と研究開発費に対して、年度をずらした変数を作成し、何年後のPBRに影響を及ぼすか(遅延浸透効果)について回帰分析を実行した。「p値※31%未満、t値2.5以上」を有意水準(正の相関がある)として、その結果を図表1に掲載する。

 結果としてTOPIX100企業をユニバースにした場合も、人件費と研究開発費は、p値1%未満かつt値2.5以上でPBRと有意な正の相関を持つことを確認することができた。

 個別に見ると、人件費では6年から9年遅延して、研究開発費では6年から12年遅延してPBRを高める効果を持つという相関関係を検出した。

 これらの分析結果は、柳モデルとエーザイの分析結果とも、基本的に整合するものである。

 さらに、人件費の分析結果の中で最も有意性が高い結果となったものを使用してPBRの感応度を計算した。その結果、人件費投入を1割増加させることで、7年後にTOPIX100企業平均ではPBRが2.6%上昇するという示唆が得られた。

 一方、エーザイの分析では、人件費投入を1割増加させることで5年後のPBRが13.8%上昇するという結果が確認された。

  つまり、上述の実証分析に比べて遅延浸透効果が短く値も大きいため、TOPIX100企業の平均的な数値に比してエーザイの人件費投資効果が高いことを示している。
 
  同様の計算を研究開発費に対しても行うと、研究開発費投入を1割増加させることで、7年後にTOPIX100企業平均でPBRが3.0%上昇することとなる。

 一方でエーザイの分析では、研究開発費投入を1割増加させることで、10年以上の年月を経てPBRが8.2%上昇するという結果になっている。

 値はTOPIX100企業のものよりも大きく、研究開発費投資効果がより高いことを示している。しかしながら、遅延浸透効果はエーザイの方が長くかかる。この点は、製薬産業における研究開発期間が他のセクターと比較してはるかに長いことと整合している。

 さらに、追加分析として、TOPIX500にまでユニバースを広げ、PBR1倍超の企業とPBR1倍以下の企業にグループを分けて同様の柳モデルの重回帰分析を実行した。

 分析結果として、PBR1倍超のグループでは人件費投入の増加が6~11年後のPBRを、研究開発費投入の増加が7~11年後のPBRを引き上げることが確認された。

 なお、PBR1倍以下のグループでは、PBR-IIRCモデルの示唆(PBR1倍以下ではESGの価値が具現化していない)の通り、有意な結果が得られなかった。その結果を、図表2に示す。

 TOPIX500企業でも、柳モデルとエーザイの回帰分析の通り、人件費や研究開発費は遅延浸透効果をもって、6~11年後のPBRを有意に向上させる正の相関が観察された。

 ただし、TOPIX500企業では人件費・研究開発費投入から0~4年の短期では、PBRと負の相関になっている点には注意が必要である。

 これは、TOPIX100企業と比較して、TOPIX500企業には十分にIR部門にリソースを避けない企業も存在するため、情報の非対称性から「人件費・研究開発費増加→今期の利益減少→株式売却」といったショートターミズムにさらされているのでないかと推察する。

 しかしながら、TOPIX500企業でも人的資本や知的資本が中長期的な企業価値を高めることが示唆されてもいることが重要であり、日本企業は長期志向で市場に対峙すべきである。

 いずれにせよ、柳・杉森(2021)は、柳モデルが日本企業全体にも適用可能であることを証明したと思料される。

※1 2019年10月末時点を基準日とした。
※2 PBR1倍超の企業の基準は具体的には、分析対象期間である2000年から2019年の間で取得できたPBRの平均値が1倍超であることとした。
※3 p値とは、「もしある事象が偶然に起こり得るとき、観察された値と同等か、より極端な結果が得られる確率」を指す。一般にp=0.05を基準とするが、これは「実際には偶然にすぎないのに、誤って『意味がある』と判断している」可能性が5%以下という意味である。