しかし、富岡家の場合は、どのセリフも当てはまらない。というか、妻が口を開くことはない。

「……」

 文字にすると、こう書くしかない。妻は僕から視線を外したまま。壁際をスススッと移動し、扉を開けて、ウオークインクローゼットに消えていった。

 お互い全く口をきかないわけではない。子どもがいる時は運動会や参観、習い事の予定のすり合わせぐらいはできる。ただし、何気ない日常会話をしない。いわゆる世間話、雑談をすることが、ほぼない。

 そして妻が徹底して拒否するのが、家にふたりでいる時の挨拶だ。

 僕はこの妻の仕打ちを「シカト沼」と名付けた。同じ経験がない読者は、あまりピンとこないだろうか。経験者として正直に語ると、この無視はじわじわと精神をむしばむ。

「あんたのことは人として認めていない」

 ある時、残念ながら、口論が発展し、お互いを罵り合う状態となった。その際、妻は僕に「あんたは私を軽んじている」と怒った。僕は「そんなことはない。リスペクトしている」と返答した後、逆に質問を発した。「軽んじているのは、美和ちゃんのほうじゃないの? 全然、挨拶返さないじゃない」

 妻は実に冷酷な言葉で応じてきた。

「あんたのことはもう、人として認めていないから。だから、そんな相手には返事をしない。そう私は決めている。だから絶対に答えない」

 僕が苦しんでいる、この「シカト沼」にはまっている夫婦は、実のところかなりの数にのぼりそうだ。「ぐるなびの夫婦関係向上運動『ブライダルデー』の活動の一環として運用」されている「ブライダルデー」というサイトがある。17年5月、30~40代の既婚男性100人に実施した調査で、「あなたが夫婦喧嘩をした中で今までで一番辛い仕打ちを受けたのは何ですか?」と質問した。具体的項目だと「月をまたいでシカト」と「食事が出てこない」が共に19%で1位となった。