「そば」が中国で広まらなかった理由は「配給」にあり

 毛沢東時代の中国では、経済発展の遅れにより、長い間、中国国民は配給制を代表とする耐乏生活を強いられた。食糧や食品を買うにも「糧票」と呼ばれる食糧配給券を提出しなければならなかった。

 当時、北京などの北方では、その食糧配給券はさらに「粗糧票」と「細糧票」に分かれていた。前者では主にトウモロコシ、アワ、ソバ、コーリャン、イモ、大豆などの穀類・豆類とその加工品しか買えない。後者は精米、小麦粉とその加工品を買うのに使われる。今でこそ、粗糧は健康に良いと持ち上げられているが、肉食の生活が少なく、食用油の供給も非常に厳しく制限されていた配給制経済年代には、粗糧は敬遠される存在だった。

 1980年8月からの1年間、私は北京語言学院(現・北京語言大学)に開設された中国日本語教師研修センター(愛称「大平学校」)で勉強していた。食事はそこの食堂を利用していた。

 しかし、当時、米を主食とする上海以南の地方から来た研修生たちは、北京の食事になじめなかった。それは配給制度の影響があった。食糧がすべて配給制による当時の中国では、地方によって、その配給方法が違っていたからだ。

 例えば、上海では、配給枠以内なら、パン、マントウ、麺類、ご飯のどれでも自由に選んで買うことができる。しかし、北京では、米と小麦粉類を分けてそれぞれの配給額を制限していた。具体的な数字は忘れたが、例えば15キロの配給額のうち、米は6キロ、小麦粉類は9キロといった具合に内容と量を制限されていた。

 主食が米の南方で生まれ育った同僚のなかには、生まれてはじめて北方に来た人もおり、小麦粉を主食とする生活に相当な戸惑いを覚えていたようだ。私は青春時代に黒龍江省で数年間生活していたから、むしろマントウのある生活にも慣れている。それを知った女性の同僚から、小麦粉類購入用食券を私の米購入用食券と交換しないかと相談を持ちかけられたこともある。このような配給制は1990年初期まで続いた。

 だから、長い間、中国人にとってのそばは「粗糧」のそばでしかなかった。