外国人とうつった写真を、SNSに何枚載せられたか?
その機械があればいいのに、と私が思ったのは、一度だけではない。自分の価値を測りたい。自分がこの世でどれくらい必要とされているのか知りたい。実際にその機械が手に入ったとして、自分を測る勇気があるかどうかはわからないけど。
ところで、私はステータスでものを見る人たちを見下そうとしてしまうことが、よくある。無意識のうちに。人を上下で判断したくないと思うものの、反射的に値付けする癖みたいなものを、やめられないのだ。
たとえば私が学生時代、留学していたときのことだ。留学生活後半戦に入った頃、私は、自伝を書くことに決めた。出版目的とかブログに書くとか、人に見せるためのものではなく、自分で自分を可視化するための作業だった。
親元を離れ、ひとりでじっくり物事を考えるという経験自体、私にははじめてだった。異国の地でカルチャーショックに遭い、自分がこれまで培ってきた価値観が、ガラガラと崩れていく感覚があった。そうして、親の真似事でしかなかったものを捨て、自分なりの「哲学」みたいなものを一から構築していく作業は、それなりにしんどくもあったけれど、同時に、楽しいことでもあった。私は、せっかく日本から距離を取れるこの場所にいるうちに、自分自身とどっしり腰を下ろして向き合おうと思ったのだ。
せっかく海外の空気を直に感じられる場所にいるのに、部屋に引きこもってガリガリ文章ばっかり書いている私は、客観的には、それはそれは「ムダな」時間を過ごしているように見えただろう。事実、日本から一緒に渡米した留学仲間の中には、「それって逃げじゃないの」と言った同級生もいた。
それもそうかもしれない、と私は思った。たしかに逃げなのかもしれない。ただ、彼女には彼女のものさしがあって、それはきっと私の持つものさしとはまったく違うものなのだ、と私は思った。彼女の持つものさしは、「目に見えるもの」「客観的な裏付けがあるもの」を何よりも重視していた。
いかに外国人の友達がいるか。
いかに留学をエンジョイしているか。
いかに留学経験を生かして、いい企業に内定をもらえるか。
外国人主催のパーティに、何回誘われたか。
外国人とうつった写真を、SNSに何枚載せたか。
そういう、数字で具体的にはかれるようなこと。それ以外のことにはまるで興味がなさそうだった。ある意味、彼女の考え方はとても明瞭だった。
そして、そんな考え方を持つのは、彼女だけではなかった。同じ日本人留学生の大半が、そのものさしを使って生きていたのだ。