「人間的には未熟」という言葉の誘惑
彼らと自分とのあいだに、うっすらと、けれどたしかな壁ができつつあると気がつくまでに、それほど長い時間はかからなかった。納得いくまで考えて「自分と向き合うために時間を使う」という決断をしたとはいえ、彼らの蔑みの視線を感じるたびに、劣等感を味わった。「彼女の言う通り、逃げてるだけなんじゃないか」とも、何度も思った。
結局、ただでさえ話し相手のいない海外生活でさらに追い詰められた私が、自分を守るためにとったのは、「彼らを見下す」ことだった。「人間的な成長」というものさしを使って、私は彼らと違うのだ、と自分に言い聞かせ、そうやって心の平穏を保っていた。
他の子たちは私よりも英語ができたし、私よりも外国人の友達がたくさんいた。私は張り合いがくだらないと思いつつも、同時に、そのことに焦りを感じてもいた。矛盾した感情を一度に抱えていた。留学をエンジョイしなきゃだめなんじゃないか、せっかく海外にいるんだから、リアルな英会話を身につけなきゃだめなんじゃないかという気持ちと、国際交流よりも自分とちゃんと向き合う時間がほしいという気持ち。
そして迷った私は結局、自分のより得意な方を選んだ。
国際交流を頑張る彼らの価値を、こう評価することにしたのだ。
「たしかに英語も国際交流もがんばってるけど、人間的には未熟だ」
彼らは自分たちを客観的に見ることができていない。プライドが高くて見栄を張っているばかりで、人間的に成長しようとは考えられていない。英語なんて日本でもいくらでもできるのに、上辺のものだけに惑わされている、幼稚な人間だ。精神年齢が低いから、仕方ないんだね、きっと。そんなふうに見下していた。
つまり、「人間性」という価値検査器で彼らを測ることによって、私は、自分の心の均衡を保っていたのだ。そしてその癖を、私は未だに、捨てきれないでいる。
みんなに共通する、便利な価値検査器なんて、現実のこの世には、どこにも存在しない。
けれど個人個人が、それぞれの検査器を持っている。
そしてほとんどの人はおそらく、自分のいちばん得意なものさしで、他人を測る。
仕事が得意な人間なら、仕事の出来不出来で。
ステータスが好きな人間なら、ステータスで。
自分は人間的魅力があると思う人間は、人間力で。
どちらが上か下か、判断する。
こんなことするべきじゃないし、上下で価値付けすればするほど苦しくなるだけとわかっていても、なんだかんだ、やめられない。どちらがより価値があるか、測りたくなってしまう。
仕事をものさしにしている人は、「働く楽しさを知らないのはもったいないよ」と言うし、私みたいに、「人間としての深さ」みたいなものに逃げたくなる人もいる。「そうか、あなたはまだ『本当の恋』を知らないんだね」と、なぜか「本当の」という曖昧すぎる形容詞と、恋愛経験という、これまた人間の優劣にいっさい関係のない物事でやたら上に立ちたがる人もいる。自分だけのものさしを持たず不安な人が、陰謀論のような極端なものさしを振りかざしはじめるケースもある。自分たち以外の人を「まだ目が覚めてない人」と名付け、そうでない自分たちはまるで「選ばれた人間」であるかのように振る舞う。